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「持ち主」について

こんにちは。
先日、物について「持ち物」を出しました。なので、今回はさくっとそれらを所有している「人」についてをつらつらと書いていこうと思います。良ければ併せてご覧いただければ幸いです。
既にご覧になられた方、いかがでしょうか。数えて、みられましたか。

さて、記録した後ここから、さらに必要なものとか整頓した方がいいものはなんだろうか思いながら、日々ものと向かい合っています。減らすだけでなく時折、増えたりもしています。驚いたことに、分別の中でだいたいタイプくらいの関わり方がありました。
・毎日使う(必須)
・よく使う/比較的早めに使い切るのを目指すもの(日常品)
・想い入れのある(贈り物、個人的希少品など)
です。

これは習慣になるかもしれませんが、持ち物でも本などのものは「一つまで」というのが癖のようになっています。同じものをよほどの理由がない限り2つ以上持つのがなんとなく苦になってしまいます。服は例外にしています。といっても、服の数が多い訳ではないです。
物を見まわしてみて、はっと思ったこと出てきました。それは「人間一人が所有できる物の数には限りがある。」です。何を当たり前な、と思われるでしょう。ただ、自室の物から物を整頓していく時、例えば旅行の為にいるものは日帰りなのか宿泊によって変わります。緊急事態で避難に持ち出すべきもの、だいたい纏めてすぐに出られるように固めておくでしょう。家という住いから持ち出せるものの数ってそんなにないんだなと知りました。
私の場合、自室に本が多いです。ですが、持ち出せるものが少ない嵩張ってしまうので、本当に必要な本を見定めないといけないなと購入する際も手放す際も真剣です。他にも、食べ物や文具、必需品でもなるべくコンパクトに済ませられるようにしています。青空文庫やアマゾンの著作権が切れたものを活用しています。青空文庫はとてもありがたいですが、横に文字を読むのを中々苦戦しています。

減らすことに重きを置いているのではないですが、気づいたら物は少なくなっていっています。しかし、少し前に北原白秋「思ひ出」の本を購入しました。中々見つけられず、見つけた時はとても嬉しく思いました。もはやないだろうとさえ思っていたので、驚くべき世の中よのうとおばあちゃんみたいな心地でした。ちなみにこれが刊行されたのが昭和52年です。今から47年前の本です。初の古書で「今」と全然違う質感に歓喜しました。ちょっとだけコレクションするのは今は失われた何かがあるためなのでしょうと思います。さすがに草案や初版まで戻ると戦慄します。調べるだけでもいろいろ勉強になります。

誰かから「貴方が物を選ぶように、物も貴方を所有者として相応しいか選ぶんですよ。」と言われたことがありました。もはや、誰が言ったのか全く覚えていませんが、すごく素敵な言葉だなと今でも思っています。持ち主として背筋が伸びるような想いが致します。
前ほど物を持たなくなったのはなんとも不思議な感じですが、きっとなにか得るべきことが終わった(満了)もしくはなにかが合わなかった(排除)のだと思うようになりました。これもこれで、一つの結果と思います。


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