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「0か100」かについて

こんにちは、Nollです。

「読書について」で書かれたショウペンハウアーは読書をする人をこう表現した。
「読書とは他人にものを考えてもらうことである.一日を多読に費す勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失ってゆく.」
これは岩波文庫の表紙に明記されている言葉です。これを聞いたときどう思うのだろう。「読書ってよくないのか?」「え、なに。どういうこと。」と不安を煽られるのではないだろうかと思います。
最初からこの本の答えが解っていて、自然と実践しているというからこの本は不要だなんという人がいたら、そもそも手に取らないでしょう。そこまで一目で見抜く人がいたら天才かと私だったらざわついてしまいます。芥川龍之介も「或阿呆の一生」の中で、自分が天才でなくてよかったというのです。

さて、ふとこういう煽りがあったときに、強固な精神でもない限りだいたい悪いほうに考えてしまうのではないかなと思います。ショーペンハウエルにその意図があっての事かはわかりませんが、私は0(全く不明な状態)か100(完全理解)のどっちかを選択している、また0の状態は悪いと思って不安になったりするのかなと思います。0か100か、善か悪かって結構極端だなとは自分でも思います。(もちろん、犯罪については別です。これは白黒つけることだと思います。)

寄り道話
たまに見るドラマの一場面です。この中で悪と判定するとしたら、誰をジャッジするでしょうか。記憶が怪しいので概要だけになってしまうのをご容赦ください。
「一組の夫婦が結婚した。政略結婚だった。夫は名声があり、妻には富があった。共有する財産すべてそれらをお互いに自由に使ってもよい、ただし恋愛禁止。にも関らず、妻の知らぬところで夫は別の人と恋をした。それを妻には隠してた。ばれて居ないと思ったが、知られてしまった。夫は謝罪をするが離婚を申し出る。妻は怒り狂ったが、別れようとはしなかったが、激情のあまり夫を殺害してしまった。彼女は夫を愛し慕っていた。それを不倫相手にすべて罪を被せようとした。」

実際に放映されていた海外ドラマの一場面なので、ご存じの方は「もしかしてこれあれなじゃい?」とお気づきになられたかもしれませんね。

東洋では全か無かも大事ですが、どちらかというと真ん中で均衡をとることが大事なような気がします。それを表した「中庸」はめちゃくちゃピンポイントな言葉だなと思います。中庸の肝は「偏らない」こと。なので、良いとこどりしてもバランスが平衡が保たれればOKというのです。最強ではないでしょうか。

昔々、禁欲主義あるいは快楽主義というのがありました。これらを聞いて皆さんはどう受け取るでしょうか。「禁欲」だと、好きなことを何もかも我慢して言われたことやルールに絶対的に守らなくてはいけない。「快楽」だとその反対で、好きなことを好きなだけやってもいい。そんな風に思われたのではないでしょうか。
しかし、古代のローマやギリシャの哲学者の捉え方はそこからとは全く違う型でした。禁欲主義はストア派と、快楽主義はエピクロス派と呼ばれます。

ストア派
ストイックの語源。その中身のポイントは「自然に従って生きる」「理性を重んじる」という点。読んだ本だとプラトンの「饗宴」やセネカの「時間の短さについて」があります。「時間の短さについて」では、時間を主に欲に時間を費やしすぎるとその分本当に使いたい時間は減りますよというのを手紙に認めた話です。手紙には昇進や昇給、名声のために今の仕事(穀物の数を数えて管理する職)を続けるより、辞めて故郷に帰って健康に本当にすべきこと(学問に力を注ぐこと、作物を自分でつくるなど)をした方がいい。生きるという学問は誰にも変わりができない。と伝えました。

エピクロス派
欲望が2種類に分類されるとされているそうです。自然な欲望と無益な欲望だそうです。自然な欲望にも必要なものとそうでもないものと区切ってあります。必須には衣食住、健康、友人として、そうでもないものに性愛やちょっとした贅沢。無益なものには権力、富、名声という外的なものに起因するものを挙げています。心と体の健康を重んじ、思慮と自己充足の状態が良い状態としました。そして「隠れて生きよ」という言葉を残しています。大きく目立ってもその反動がある事を知っていたのではと推測します。

主義は真逆かもしれませんが、表現がすこーし違うだけで大事にしているコアの部分は結構一緒なような気がします。特にどっちにという事もなければ、必要な個所を切り取って自分にとってバランスが取れたら自分を均衡な状態に保てるのではと思います。


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