絶縁宣言について

どうも、家でゆっくりしているのに「ゆっくりしたい」とばかり思っている。何かとソワソワして落ち着かない。ここ数日の若干の寝不足も影響しているだろうが、原因の根本はそこではないだろうと思う。一つ言えるのは、大晦日に受けた衝撃が今も癒えていないとい云う事である。あの日は幸いな事に、短い時間に多くの人から慰め、励ましてもらった。なので、それなりには回復が実現したと思う。されど、これは私にとっては罪に対するある種の罰なのだろうが、傷の完治には至っていない。

あの寒い朝、スマホを見ると、前日一緒にオンライン忘年会をやっていた友人から「工楽君達とは距離を置く」と連絡が入っていた。"達"とは、忘年会を一緒にやっていたもう一人の友人を含めると云う事である。私とそのもう一人の友人は、恐らくであるが、彼を傷付けた。しかし、何か決定的な友人に対する加害の瞬間があったとは認知していないし、更に言えば何が彼を傷付けたのか私は聞かされていない為、私としては底の無い反省会しか出来ず、常にソワソワしている。その友人とは仲良く一緒に時間を過ごせる間柄だと思っていたし、何なら今もそう思える友人で、とは言え彼からしてみれば絶縁宣言をする程苦痛な関係であったのだと思うと、あらゆる事が混乱してしまう。

「絶縁宣言」と言うと、この日記を長らく読んでくれている方であれば、思い出す事があると思う。私も去年の秋、とある人に絶縁宣言をした。その彼女に対して私はどうしようもない恐怖を懐き、もう会えない、と思ったのである。しかしやはり、今回自分が絶縁宣言をされて思うが、やはり絶縁宣言はかなりの厳しさを含んだ宣言であると思う。仮に、絶縁宣言をして来た相手がそれなりにどうでもよい相手であっても、である。「あなたとはもう会わない」と云う言葉の破壊力は物凄い。一緒に生きてゆく事を拒否する発言である。それを、私は確かに"された"が、一方で確かに"した"のである。

そんな攻撃性、加害性を改めて確認する今日此頃、とある友人の事を思い出した。その友人は私にとっては一緒に美味しく酒が飲める大切な友人の一人なのだが、噂に聞くと、あらゆる所で絶縁宣言を経験しているらしい。正直に言って、よく私と会ってくれるなと思う。例えその受けた絶縁宣言にどんな背景があろうと、そこまであらゆる人から拒否をされれば、私なら人間が怖くなって、ひきこもる。

私は、誰が悪いとか、そんな話は全くしたくない。私の今のこの文章を、誰かに対する攻撃的な文章であると受け止めた人が居るならば、その人には謝りたい。そうではない。決して。私が絶縁宣言をした相手も、私に絶縁宣言をした友人も、多方から絶縁宣言を受ける友人も、私も、もしかすると悪さがどこかにあるのかもしれないが、そんな悪さよりも、私は人の憐れさに注目した話をしたいのである。私に絶縁宣言をする程傷付いた友人も、多方から絶縁宣言を受ける友人から実際に加害をされ傷付いた人達も、その多方から絶縁宣言を受けた友人も、私に絶縁宣言をされた人も、私も、みんな憐れである。もう、ぐちゃぐちゃである。人間がぐちゃぐちゃに見える。私は早くその憐れさを抜け出したい。もう何が何だかわからない世界の中で、確かな、絶対的な安心を欲するのである。ゆっくりしたい。

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