何故私は侍ジャパンを応援したのか

新聞、地上波、インターネット、あらゆる媒体で侍ジャパンの快挙が取り扱われている。勝利から一夜が明けても様子はあまり変わらない。そんな中で私も、今日もあの勝利の味を噛み締めている。当然であるが、私は試合に出場した訳ではない。別に、知り合いが試合に出場した訳でもない。何なら野球人でもない。ただただ野球の好きな一般人である。それでも私は、大谷翔平が帽子を投げて雄叫びを上げたその時に、同じように雄叫びを上げた。村上が苦しんでいる時、私も苦しかった。もっと言えば、侍ジャパンにピンチが訪れた時は、普段は有り得ない緊張を私もした。WBCの期間中、私の頭の中はWBCが中心であった。

何故私は侍ジャパンの勝利に喜んだのか。何故野球が好きなのか。正直あまりよくわからないのである。あれやこれやとその「何故」に答えるべく理由を探してはみたものの、論理的に問うてゆくにつれて、見えてくるものは私の知らない領域であった。ちんけな領域であった。そんなものが原因で私は侍ジャパンや野球が好きなのだとは思えなかった。もっとこう、複雑で、言葉では計り知れない、とても繊細な理由があるはずだと思った。私は、この勝利の喜びを、万人と分かち合うのは不可能だと思った。この勝利が如何に喜ばしい出来事であるかを説明する事が困難であると思ったのである。

とは言うものの、いくつかはっきりとしている事はある。何もわからない訳ではない。第一に、私は野球が好きである。これは疑いが無い。そしてそれに加えて、私は侍ジャパンの勝利が嬉しいのである。例えばであるが、野球が好きなだけであれば、侍ジャパンが負けたとて然程悲しくはなかっただろう。しかし、侍ジャパンが負けていては、私が今このように満たされている事は無い。私が満たされるには、侍ジャパンの勝利が必要だったのである。故に、私の中で侍ジャパンの存在が如何に大きかったか、これも疑いようが無い。日の丸を背負う選手達が、他の国のどの選手よりも美しく感じた。先程も述べたように、これが何故かは計り知れない。しかし確かにそうなのである。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?