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わたしたちは本当に自由に生きているのか

わたしのまわりを見わたすと、なんでも好きなことばかりをして生活しているような方がいらっしゃいます。
本当に自分の選んだこと、やりたいことをすべて実践できる方のことです。

たとえば朝起きて「今日はなにをしようかな」と思いつきで、なんとなくの計画をたてて、いろいろやってみる。
そして、それがほぼ思い通りにできてしまう。
もちろん「毎日が日曜日」状態。しかも「日曜日」の状態で、生活できてしまう。
ある意味うやましい限りですが。

そこまでいかなくとも、ほかにも存分に自由を謳歌(おうか)している方は、少数かもしれませんが、いらっしゃいます。

たぶん、多くの人たちは、会社・職場(最近はテレワークが普及しており、フリーランスの方など含め、自宅が職場の方も多くなってきております。もちろん職場が自宅だからといって、行動の自由が得られるわけではありませんが。)で、ある一定の時間を拘束され、「やらなくてはならないこと」に従事し、なんとなく不自由さを感じて生活をしているのでないでしょうか。

こころの自由とは


ウィーン生まれの心理学者で、第二次世界大戦時のナチスドイツによるオーストラリア併合後に、ユダヤ人であると理由で、強制収容所に送られた経験をもつフランケル博士によると、死を意識した極限状態のなかで、「人間の魂は結局、環境(過酷な収容所生活)によっていやおうなく規定される印象をあたえるもしれないが、与えられた環境条件にたいしてどうふるまうかという、精神の自由はないか、と。」いわば究極の拘束下のなかで、「最後に残された精神の自由、つまり自分を見失ない英雄的な人の例は、ぽつぽつと見受けられた。」

つまり、不自由な極限状態のなかで、どんなに身が不自由であっても、「こころの自由」を保てる人もいるということです。
環境(アウトサイド)に影響されやすい常人では、なかなか難しすぎます。

そこまでいかずとも、わたしたちには、どんな状況下であっても、常に選択の自由があり、最終的には、選択した先が不満なものであったとしても、自分の判断で物事を決めております。
就職にしても、結婚にしても、どこに住むか、なにを食べるか、など。

また、考え方、信念、思いこみなど、たとえ他人からゴリ押しされたとしても、そうそう変えることができない「自由」をもっております。

自由を発揮するには


今現在、「今のブラックな労働は、不自由さ極まりない」「こんなボロい家にだれがすき好んで住んでいるのか」など、限られた選択肢のなかから仕方なく選ばざるえない状況下にいる方もいらっしゃると思います。

しかし、冷静に考えてみると、そのブラックな職場やボロボロの住まいを選んだのは、結局のところ、他ならぬ自分自身であると。

つまりこの選択肢しか持てないということは、今現在の自分自身の「力不足」であるということではないでしょうか。

「ブラックな職場から脱出するために転職する」「もっと環境のよい住まいに引っ越す」などができない状態、
いわば本来の自由な選択からは、とてもかけ離れているということであれば、この「力不足」を解消しなければなりません。

本来持ち合わせているわたしたちの「自由」を思う存分発揮するには、日々選択肢を広げ、実現できる「力」をつけていく努力が必要なのですね。

その過程で、本当に自由を謳歌できる実感が、今以上に、わいてくるのかもしれません。

ちなみに、わたしたちの「力不足」は、アンソニー・ロビンズいわく、本当に「能力がない」のではなく、「訓練が不足していて、技術がじゅうぶんに身についていない」だけなのです。


参照されたい
「夜と霧」ヴィクトール・E・フランケル 池田香代子訳 みすず書房



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