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『シン・高等教育!』~学歴志向を変えるためのシステム~

社会情勢はドラスティックに変化しているというのに、大学入試制度を含めた改革は遅々として進まない。現状維持の圧力は、自己保身のかたまりだ。子供たちにリソースを「浪費」させるのはもうやめよう。ちなみに、教育現場で「必死に踏ん張っている人たち」を責める意図は微塵もない。システムをどうするかという提案だ。

①高校の存在意義って?

まず、「大学への進学」という学歴志向の枠組み中で、現状展開されている高等教育の様子を確認していく。高校は数多くの科目をバランス良く教える場で、部活などの課外活動も支援する。個々人の大学受験ニーズに特化できない分、補完するというのが塾/予備校という構図が長らく続いている。

・塾/予備校が受験対策に優位性を持つ理由

まず、塾/予備校が大学受験対策に強いのは、科目に特化した人材が講義を行い、志望校別に講座すら設置できるから当然だ。特に難関大学を受験するうえで、学校説明会でよく謳われる「塾は必要ありません」はお題目に過ぎず、塾/予備校に通わない生徒の数も、合否との相関関係の開示もない。

一方で、塾/予備校の弱点は時間拘束が難しい点と、学校の学費にプラスしてお金を払わなければならない存在だということ。

塾/予備校レベルの役務を学校で継続的にやるのは過酷で、私立中高一貫校でも過労が祟ったのか若くして亡くなる先生や、科目教育に特化したいがために塾/予備校に転身する先生などを見てきた。その差を生み出すのは、「チューター」や「教材・テスト作成部門」による分業制だと考えている。

支援スタッフの増員が少しでも「努力する」教師の負担減に繋がってほしい。残念ながら、下の施策は公立小中学校限定、全校一人も行き渡らない。塾の「チューター」は運用次第で実に効果的な補助を担ってくれる。塾の人員を公教育に吸収するというベクトルは間違ってはいないように思う。後は人数の問題と教員免許システムの問題だ。


・情操教育の場としての高校!?

また、共通した「情操教育」は義務教育期間でも十分だと思う。高校は、学力で中学生の母体がシャッフルされただけで、「高校」ゆえの独自性の高い経験は少ないと考える。むしろ「大学」で親元を離れたり、「社会」に出ることで一気に状況が変わるので、フィールドワークなどの機会が必須だ。

私は校則を無視してアルバイトでコミュニティを広げたが、価値観を広げる上でかなり有用だった。それこそ高校生全員に、週1、5時間以上のアルバイト必須として課したほうが、よほど面白いのではないか。地方創生と絡めて、農家の収穫作業のお手伝いをやるだけでも意識は全然変わる。

・存在意義が低下は拘束の苦痛を招く!?

高校の授業が短縮になった生徒が、喜んで塾の自習室にやってくる姿を見るようになって久しい。「20数年前」に慶應SFCのディスカッションに塾関係者として参加したときに、高校の先生に指摘したことが懐かしい。

高校が自らの存在意義を検討する期間は充分にあったが、結局それを見つけられたわけではない。学歴志向がなくならない中で極端な舵を切るということも難しいのだろう。そんな中でN高などの存在が革新的に捉えられる。

実社会に必要なスキルが身につかない、学歴志向にも応えられない、やったことが一部の学校での塾/予備校の招聘、成果を出しているのは「自発的」な探求教育、というのでは存在価値を見出すのは難しい。

高校は、拘束時間の長さを活用した「考察・演習の場」、また社会の前段階における「モチベーターの役割」を徹底することで一定の活路が見出せると思っているが、カリキュラムの束縛から「課外活動」に依拠する側面が強いことに課題がある。その課題活動すら塾との時間の折り合いが難しい。


自由度の高いカリキュラムや単位の大幅な見直しで、公立であっても自由裁量を持てるようにしたうえで、受験資格には支障が出ない配慮をする。結果的な「淘汰」を恐れていては、何の改革も机上の空論に終わる。

ただし大学受験を突破させても、高校の学習と大学の授業内容の接続の悪さは尋常ではない。東大(文系)に入っても教授の書籍販売会に付き合わされ、単位収集ゲームが繰り広げられ、少し面白い授業は満席で入れない。「なんだこれ」という印象が強く残る。今では授業の「倍速視聴」がスタンダードだ。うらやましい笑。

大学への接続問題まで考慮すると、もはや如何ともしがたい問題となっているように思える。ただのラベル(学歴)を収集するために青春の多くを犠牲にさせることは「高等」でも何でもない。


②シン・高等教育

【必要なのは高専の濫立】

高等教育であるにも関わらず「内容の平等性」を追いかけるところに問題の根っこがあるのではないかと考えている。「最大公約数」の範疇が広すぎて、義務教育と高等教育の線引きが曖昧になりすぎている印象だ。

スポーツ・音楽・技術に特化したい(本格的にやる)人には、専門の教育機関を用意すれば良い。高専をイメージすれば分かりやすい。オルタナティブスクール化している農業・工業・商業高校は結構多い。例えば、農業高校から農業に従事するようになった学生の比率は1.75%らしい。学力の足りない生徒の受け皿にしかならないのでは専門性は発揮できない。

また、大学への進学を絶対的と考える学歴志向を革命的に覆さないと状況は改善するわけがない。そのためには、専門的な教育機関から企業・組織への直接採用ルートを強化する必要がある。

既存の高校や大学というシステムの変更が不可能ならば、上記の記事のようなルートをガンガン作って、直接雇用を進めること。この「神山まるごと高専」の意義を多くの人が理解してくれると嬉しい。ただ、この高専は「私立」だ。教員採用の幅は広く、地方創生と絡めたモデルケースとして大いに期待しているが、全国的な横展開となると資本の問題と直面する。

また、既存の高専は工業に偏っている。以下のような取り組みが始まっているのは前進かもしれないが、リテラシーレベルの教育動画はネットで無料で手に入れられる時代だ。護送船団的な施策から抜け出せた感は少ない。


デジタル・デザイン・芸術・スポーツやその組み合わせという選択肢があってよい。スポーツ高専から警察・消防・自衛隊、デジタル・デザイン高専からDX、芸術高専から地方創生、など受け皿は用意できそうなものだが。


【大学教育の前倒し】

「大学への接続」を残すイメージでいくなら、専門科目の学習の前倒しがポイントとなる。大学は教養科目の比重が高く、東大など2年も教養学部に強制的に突っ込まれる。正直、専門に特化できる大学に行けばよかったと後悔した。

別に東大に限らず、下に貼った一橋大学に新設された学部のカリキュラムを見てもらっても「入門的な内容」に割かれる時間が多いことは良く分かる。これを高校で前倒しでやってほしいのだ。

一橋大学・ソーシャルデータサイエンス学部のカリキュラム

大学での講義の選択も、「〇単位以上」となっているから網羅的に受講できるように見えて、実は時間割の科目重複でそれが叶わないことも多い。「基礎科目」や「発展科目」だけに4年間割けるなら、実に有難い。

SSH(スーパーサイエンスハイスクール)に認定されている愛媛県の松山南高校で、愛媛大学の「一般教養科目」の単位取得が可能というものがあるが、一見似た政策のようで優秀生の地元国立大学への囲いこみ目的がメインに見えてしまう。「専門科目」の単位取得が必要だ。

大学入試までに専門を決められないという議論も発生するだろうが、仕組みが変われば意識も変わるし、考える学生は元々考えている。興味喚起の仕方が「テレビ的」で「職業体験的」ではないところが問題だと考えている。

【科目編成のシャッフル】


・語学教育は自動翻訳機能で大半が徒労に!?

小学3年生から「14年」も英語教育に浸らせるのはリソースの過剰配分だ。4技能に着目するのは良いが、自動翻訳機能の開発が進むなかで必要なコンテンツは何かを精査してほしい。カタカナ語の学習とプログラミングに出てくる英語以外に必須なものって何か。英語圏の文化理解は社会学の範疇だ。文法研究などの専門的な内容は大学院で好きな人がやればよい。むしろ中国語と並行できるボリュームにすることが時代的ニーズに即している。

・古文・漢文という科目は廃止!?

ただでさえ日本語は語彙が多すぎる。実用性が高くない語彙を覚える労力を減らしたい。本当に必要なら専門学校を作ればよい。市場原理にさらせば自ずと答えは見える。多様性の維持が目的なら、国立大学に国文学と中国文学は残せばよい。義務教育に、短歌・俳句を残せばよい。多様性の維持は国家レベルでの責務であり、国民全員に多様性を求めることとは違う。

・国語と社会はコミュニケーションスキルに変更!?

国語と社会の親和性は高いので、混ぜて化学反応させれば良い。インプットの素材は、法・リテラシー・哲学・社会思想・異文化理解・ベンチマーク素材としての歴史などから厳選してくる。アウトプットの訓練として、ディスカッション・記事作成・プレゼンを多用する。物語文での情操教育は義務教育でやればよいし、そこから先は趣味の領域で片付く。

・数学はマーケティングとプログラミングに変更!?

マーケティングとプログラミングと理科に必要な数学を中心に教えれば良い。そうすれば、ソーシャルデータサイエンス部の基礎科目すら網羅できるかもしれない。それ以外の数学は大学に行ってやればよい。SEOをバリバリ実践している人材が、現実に即した講義をしてくれるほうが、生徒も楽しいと思うのだが。

・地理と理科の融合がメインディッシュ!?

日本地理は義務教育で終えることが理想だが、世界地理に関しては実生活に即した科学技術・農業技術・サプライチェーンなどと合わせて教えることが必要だ。そこにフィールドワークや探求的学習を組み合わせる。理科の拡充は必要不可欠で、大学の学部編成もこの延長上にあるべきだ。法学・哲学・社会科学などの専門家にも優秀な理系出身者が数多くいる。


正直、上記のような新しい高等教育が「公教育」であることが望ましいと思っている。公教育にこそ「最高」のものがあり、私的な機関は「ニッチ」を守る。そこが逆転するから、貧富の差による教育格差が発生する。

「弱者切り捨て」とは、システムによる切り捨てが8割、努力しない者の言い訳が2割で出来ているように思う。

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(2022/9/7・改)

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