それでも、書く。


宮城県東松島市には、サンドアーティストとして芸術で街を盛り上げる地域おこし協力隊が今年4月から着任している。彼は、砂でつくる彫刻“砂像”の世界チャンピオンに輝いた実績を持ち、これまで砂像をつくって20年以上、また200体以上の作品を完成させてきたという。現在は、地域のイベント会場や街角にそのアートを生み出し、東松島独自の話題性をも提供している。取材や登壇依頼を受けることも増えてきたそうだ。

しかし、現在40代後半の彼は、これまで“砂像一本”で食べていくに至るまで長い時間を費やしてきたという。30代後半までアルバイトと掛け持ち、「俺はこんな場所で、こんなことをする人間じゃない…!」と思いながら、倉庫で商品管理を行なっていたそうだ。

諦めなかったからこそ掴めた、サンドアーティストという人生。彼は「自分にはこれしかできないということを、愚直に続けただけですよ」と謙遜しながらも、「でも、続けるための説得力は必要だ。ただダラダラ続けるのは誰でもできることで、そこにクオリティが担保されていなければならない」と語った。それこそ、あまりにつよい説得力だった。


僕は自然と、今の自分を省みていた。毎日noteを書いてはいるものの、正直“ダラダラ”と更新することも決して少なくない。いや、むしろ最近は増えてきたような実感がある。エッセイで食べていきたいなんて考えはないが、自分でも“説得力”が感じられないことに虚無感が漂っていた。偉大なサンドアーティストを前に、ここでいっそ、毎日更新をやめてしまおうかとも思った。


しかし、僕が好きなライターの古賀史健さんが、今日のnoteでこう言った。

書くことに限らず、それを「お勉強」とか「練習」とか「トレーニング」とかの発想で考えているうちはたぶん、最終的に得るものも少ないのではないだろうか。たとえば、のんびりしたウォーキングがダイエットにさほど寄与しないことを知ったとき、「じゃあ、歩かない」を選ぶのか、「それでも、歩く」を選ぶのかは、その人の健康はおろか、人生そのものをおおきく左右する選択だと思うのだ。
(中略)
ゴールや目標をほしがる自分が、ちょっと邪魔だなあと思っています。ただのウォーキングに、ゴールなんてないのにね。
なんのゴールもない歩みを。』より

あまりにタイムリーで驚いた。たしかに、今の僕には無駄な文章も多いのかもしれない。でも「じゃあ、書かない」のか、「それでも、書く」のか。その答えは、今日こうして更新していることが示している気がする。

古賀さんの文章に救われるかたちで、結局僕は未だ、とりあえず書いていようと思えている。どれほど続くかは分からない。これがどんな実を結ぶのかも分からない。それでも僕は、ただ「書く」と寄り添っていたいのだ。


いつもいつもありがとうございます〜。