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天と地 2024/05/16

天と地。
いいこととわるいこと。
光と闇。
男と女。
個と全体。
精神と肉体。
内と外。
相反する2つは1つの極で結ばれており、それらは決して別々のものではない。

例えばどちらかだけを特化して拡大することをのぞんだとしても、それらは別々のものではなく同じものなのだから、偏りを意識すれば必ずバランスが取れるようにできている。

拡大することと縮小することは同じであり、奪うことと奪われることは同じであり、与えることと与えられること受け取ることは同じである。

光をみれば同じかそれ以上の闇をみる。闇が深まればその分ひかりへと転じるときが近付く。それらは同じものだから、ひとつの極(解)をもって統合する。学びは終わり、また新たな分離の視点が現れ、新たな学びが始まる。

確かなことは、外の世界で何が起ころうと、今(厳密には今この瞬間という刹那よりも必ず '前' の時点という意味での今)みえているものは既に結果現実化したものであるということ。目に見える世界結果を変えたければ、内側を変えること。その結果がまた、ベストのタイミングで像を結ぶ目に見えるというだけだ。

だから、目の前の世界を変えようとすること行為には意味がない(ということなのだと思う)。完成したものにとやかくいうよりも、何故このような現れ現れ方になったのか、その事象が起こるにあたり元になった祈り信念は何かを見つめ、探し、見つけ、理解し、そして選び、決め直すこと。そして設定が完了したその自分で、新しく目の前の世界を見つめてみること。

変えるのは自分、変えられるのも、変わるのも自分。一瞬たりともそうでなかった瞬間はない。であるならば、今この瞬間から、自分という存在の全てにおいて、わたしはそれを行使できる。無理矢理でなく、理想に合わせるでもなく、自分じゃない自分を選ぶのでもない、《ただわたしがわたしである》とき、起こっている現実を真っ直ぐに感じて見つめて、そうなると決めればよい。決めたあとは、疑わずそうであると観察すればよい。よって、過去の自分の設定の残像の観察をして文句を言ったりコントロールしようとしている暇はない。

あー、スッキリした。わたし(たち)にできることは、わかってしまえば本当にシンプルなのだ。世界に対してできることなど何もない。だから、目の前の現実既存の結果に振り回されるなんてナンセンスで、望まない現実が目の前に再現されているときは、「そうじゃない!」と気付き→「こうであると心地よい」に気付き、そのための設定祈り・意宣りを、そのときのわたしの最善で決め直していくだけなのだ。

大仰なタイトルをつけてしまったが、天と地というか、前と後ろというか、なんだか世界を観察する視点が360°回ってもとの位置では無いところに設置し直された感じがしたので、全てを理解しきっているわけでもないかもしれないし、まとめてみた範囲(このnote)に全てを言語化し切れたというわけでもないが、何だか本当に世界の見え方が変わってしまった。なので、わたしにとっては大仰な気はしてもこのnoteはこのタイトルが最適だと思っている。

世界を観察する視点というか、そこにある法則みたいなものについては、多分ここに書いてみたことから大きく外れてはいないと思うが・・・しばらくここに書いた仮説を立てたようにように世界を観察、検証、考察を繰り返して、体験と体感を積み重ねて更に理解を深めていきたい。果たして、どこまで可能なのかと、それを確かめながら自分が何を観察しているのか、また何を観察したいと思っているのか、まだ理解言語化出来ていない部分を明瞭にしていきたい。



2024/05/16 (131/366)


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