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がっつり哲学

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がっつり哲学 各回まとめ
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記事一覧

望言命法 後編

では好ましい望言命法、つまり頭の中に「~したい」という欲求が浮かんで来た際に何でもかんでも従うのはまずいから、従うことが好ましいと思われる望言命法を一般化して考えてみる。 尚、あくまでこの記事を書いている「筆者」の考えるペルソナは毎日物的には満たされている者の精神的には満たされないような人間に対してであり、今日明日の命で生きることで精一杯という人に向けたものではない。(もっともその人たちも「生きたい」という望言命法に従って生きているのならそれに越したことはない) 加えてそも

望言命法 前編

カント倫理学において根本的な原理として定言命法がある。 カントは道徳(無条件で行われる善)を「もしお金が欲しいなら仕事をせよ」という仮言命法と、「仕事をせよ」という「~なら」を除いた定言命法という2つの命法に分けて説明した。 「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」格言として扱われるカントのこの言葉。おそらくこれは定言命法に従って、つまり良心の絶対的命令に従って毎日行動しましょう的なことを言っていると考えられる(間違っていたら土下座)。

若気の至り

多文化共生社会における現状の移民(在日外国人)問題 1.はじめに このレポートでは日本への移民に関する現状の課題を3つ述べたのち、それぞれの解決策を提示したうえで、多文化共生社会への実現の術を論じる。 2-1. 移民の受け入れや定住に関する法的・制度的な枠組みの不備や不十分さ まず1つ目の課題として日本社会に移民の受け入れや定住に関する法的・制度的な枠組みが不十分であることが挙げられる。そのなかでも特筆すべきなのは在日外国人と日本人がもつ権利の質がかなり異なっているこ

群衆 ⑱

男は外にでて一旦解除した群衆をかき集めた。群衆化された人間は群衆化されたことに気付いていない。 男が寝ていたのは夜。よって群衆化された人間は男が寝ると当たり前のように家に帰った。彼らは先まで自分が何をしていたのか不思議に思うことはなかった。なぜなら自分の意志で動いたと思っていたからである。群衆化された人間の意志は群衆の意志に統合されそしてその統合された意思は男の意志と通じているため、彼らは操られているという認識が無かった。 男は興じていた。 敵が存在しないのである。群衆の能

自由と他由 後編

ではお次は③の解説。 ③ 「自己嫌悪+人間嫌い」といったところであろうか。③に留まるようであればおそらくこの人物は死に至るか、およそ人間とは呼べないような生活を送ることだろう。さらにはニヒリズムと目的論との狭間でもがき苦しむことになるだろう。この人物は全く自由ではない。この状態を脱したいのであれば ④→②つまり自由を獲得したのち、②になる(②になってほしいのは個人的思想だが)という過程を踏むことが望ましいであろう。 まずは自己を優先しなさい。自由とは根本的には内的な思考に

自由と他由 前編

自由という言葉がある。ちゃちゃっと検索してみたところこの「自由」というのは福沢諭吉がliberty(freedom)を「自らをもって由となす」と訳したのがその始まりらしい。割と最近にこの言葉ができたのだなとすこし物思いにふけってしまったがそれはまたの機会に。今回はこの自由だけでなく他由についても考えてみる。 他由 ここで他由という言葉の定義をしたい。言うまでもなく他由という言葉は私の造語だ。諭吉は「自ら(の意思や考え)」を「行動の由(理由)」とするなんとも深い考えから自由

プラスマイナスの哲学

Introduction 人は何を基準にして事物の価値を決めるのだろうか。 想像してほしい。日常生活においてこんなニュースが流れる。 内閣支持率低調 女優○○が電撃結婚 これをすればお金がたまる 不登校者数増加 などなど。そうしたとき我々がこのニュースに興味を持った際、我々はしばしば「これは良い、これは悪い」とする。その物事の良し悪しを決めているのはなんなのだろうか?私はそこになにか明確な基準がある気がする。よってそれを論証したい。 上の図からもおわかりいただける通り、私

無責任の体系を打破するためには

1.無責任の体系とは  今回は現代の日本においても存在する無責任の体系を打破するために我々がとるべき行動を議論する。  尚、無責任の体系とは丸山真男が日本の意思決定の特徴を一言で表したものであり、彼はこれについて次のように述べている。  例えば現在でも政治家が不祥事を起こした際、担当の者が辞任することによってお役御免、と開き直るといったことが散見される。また、無責任の体系は政治体制にとどまるだけではないと考える。たとえば「日本人が海外でテロリストの人質になると自己責

模倣主義を越えて(imitationalism)②

2.感情、行為の模倣  また、模倣主義における感情、行為について述べる。こちらの話題の方が読者にとっては理解されやすいものであると思う。模倣主義者は以下のことを主張する。 ・私たちのありとあらゆる感情(悲しみ、苦しみ、怒り、おかしさ、嬉しさなど)はすべて他人から学んだことであり、それを真似したものに過ぎない。 ・人は他人がなしている行為を基にして価値基準や欲望をつくり、その行為を模倣して満足を覚える。このことから、人のすること=行為も模倣であるといえる。 ・そも

模倣主義を越えて(imitationalism)①

近頃隆盛している模倣主義。 私はこれに対し異論を唱えたい。 模倣主義とは次のように定義される。 また模倣の定義は以下のとおりである。 この模倣主義に対して私は以下の2つの点から反論する。 1.「新しいもの」は模倣ではない 2.感情、行為の模倣の分析 1.「新しいもの」は模倣ではない  仮にすべてが模倣主義者(imitationalist)の言う通り模倣だったとしよう。そうしたときに彼らに問われるのは次のようなことである。 「すべてが模倣だとするのならどうして技術が発

レテリジェンス(Letelligence)

Introduction 数十年前、私の盟友である左脇腹ガソリンスタンド君(後G君)が僕にこんな思想を展開してきた。なんでも彼曰く 「日ごろから私があたためにあたためてきて摂氏200度に到達せんばかりの温度に達するほどの思想ではあるのだが、盟友である君にだけは教えようじゃあないか。」 とのことだ。私はG君のことなどはっきり言ってどうでもよいのでここで彼の思想を紹介したい。 ここからは彼が私に教えてくれたことである。 My best friend=gasoline stan

∅(空集合)

∅(空集合) むかーしむかし。その昔にたいそう小さな村がありました。 そこではいさかいもなくみんなが平和に暮らしていました。 しかし、あるとき村のある少女が病気になってしまいました。 村の人々はお祈りをしたり薬草を施したりとあらゆる手をつくしましたが、一向に様態はよくなりません。それをみかねたある少年は「老師」に相談しに行くことにしました。 老師は村から少しはなれてひとりでひっそりと生活しており、すべてを悟ったかのようなその立ち振る舞いに「老師」という呼び名がつけられたの