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自由と他由 前編

自由という言葉がある。ちゃちゃっと検索してみたところこの「自由」というのは福沢諭吉がliberty(freedom)を「自らをもって由となす」と訳したのがその始まりらしい。割と最近にこの言葉ができたのだなとすこし物思いにふけってしまったがそれはまたの機会に。今回はこの自由だけでなく他由についても考えてみる。

他由

ここで他由という言葉の定義をしたい。言うまでもなく他由という言葉は私の造語だ。諭吉は「自ら(の意思や考え)」を「行動の由(理由)」とするなんとも深い考えから自由という言葉を造った。このことを考慮して他由を定義すると以下のようになる。

他由:主観的に見る他人の自由

かみ砕いて言うならば例えばAさんとBさんがいたとする。ある時Bさんが「俺に指図するな。自分で決めたい」と言った。それを聞いたAさんは「BさんにはBさんの自由がある。Bさんの意思を尊重しよう」と言った。
このときAさんはBさんの自由を見出した。これを他由と呼ぼうと言うのである。

つまるとこと他由とは他人をいかに優先しているかを表す一つの指標と言っても良いかもしれない。
以下の図をご覧いただきたい。それぞれのタイプを解説していく。

自由と他由のマトリックス

解説:①

①はポジティブに見れば典型的なヒーロータイプだ。自分のことより常に他人を優先する。
ネガティブに見れば自分の事を棚に上げて他人にとにかく構うお節介さんになってしまう。

①に対する反論

ここで①に対して2つの反論が予想される。
1つ目は他人を大切にするのは自分の意思なので自分はどうでもよくないことになる。よってこれは②なのではないか。
2つ目は献身的な自己犠牲+利他主義がかえって他人に心配される原因になることもある。これは他由を尊重していないことになるのではないかと言う反論。

一つ目の反論は確かにうなずける部分がある。自己犠牲をすること自体が自由であり自己の優先なのではないかと。さらにこれが2つ目の反論にもつながりその自己の優先によって他由を侵害してしまう恐れがあると。

しかしながら、これらの視点は客観的なものである。他由というのは主観的な要素が伴うためここでは主観に重きを置く。よって本人が他由を尊重していると思ってやっていることから位置としては①に入るということができる。お節介さんも客観的に見た場合にお節介さんと言えるのだ。

これがなんというか一番徳のある人物かのように思われる。つまるところ自分という存在を認知できるのは他者の存在を知覚することに始まる。人はこの世に生まれてから徐々におぼろげな境界線と言うのをつかみ始めるのだ。
そのことを了承したうえで自由と他由を折衷させる。このような人物が②に当てはまる。全員②のような人になってほしいものだ……

(続く)


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