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模倣主義を越えて(imitationalism)②

2.感情、行為の模倣

 また、模倣主義における感情、行為について述べる。こちらの話題の方が読者にとっては理解されやすいものであると思う。模倣主義者は以下のことを主張する。
 
・私たちのありとあらゆる感情(悲しみ、苦しみ、怒り、おかしさ、嬉しさなど)はすべて他人から学んだことであり、それを真似したものに過ぎない。
 
・人は他人がなしている行為を基にして価値基準や欲望をつくり、その行為を模倣して満足を覚える。このことから、人のすること=行為も模倣であるといえる。
 
・そもそも言語で感情を表すことのできる時点で模倣だ。感情は言語で上塗りされたものに過ぎない。
 
ここで私はこれらに反論するための新たな論理を展開したい。

模倣(noun)×模倣する(verb)=新たに生成された自己流のイメージ


上記図解

この式から言いたいのはすでに存在している事物が模倣の産物であるとし、私たちがそれらに対して模倣というアプローチをするのなら、それによって生まれるものはもう模倣ではなく、自己によって獲得されたあらたなイメージであるということだ。そもそも模倣主義者たちの言う「模倣に過ぎない」というのはつまるところ「模倣(している)に過ぎない」という括弧が隠されている。彼らは名詞と動詞を一緒くたにして模倣と言っているのだ。話がそれた。では、具体例をもとに考えてみる。誰にでも当てはまりやすい「働く」ということについて考えてみよう。例えばAさんが現在無職で、働かなければいけないと思い就職活動を始めたとする。

〈模倣主義者の立場〉
「Aさんが働かなければと思った」ことが模倣である。なぜなら世界の多くの人は働くことに勤しんでおり、Aさんもそれに加わらなければならないと思い、真似することで満足感を憶えたいと考えるから。その後にAさんが就職活動をすることも同様の理由で模倣である。
 
〈私の立場〉
確かに「働く」ということは一般化しておりそれは模倣の既存事実として存在する。しかしながらその既存事実に対しAさんが模倣する(=働こうと思う)ことによりAさんは自分が就職活動をする姿を想起する。(尚ここで就職活動を想起すると決定づけたのは仮定を「就職活動を始める。」としたためである。)そのイメージは模倣ではなく新たにAさんによって生成されたものである。これは全く新しいものであると言える。その理由は、式の通りである。素材(Aさんの想起を発生させた原因)が模倣であろうともそれを掛け合わせて生成されたもの(Aさんの想起)は模倣ではないということだ。*

*補足:この新たなイメージがなされた瞬間に事物となった場合それを現在進行生成事物という模倣ではない事物を進行形の形で表すことがある。

 
 
終わりに
 
 恥ずかしながら、これまで模倣主義に対して反論してきたにも関わらず筆者もかつては模倣主義者であった。加えて厭世主義的な見方をしていたことも否めない。しかし、あることがきっかけで模倣だけがこの世界のすべてではないことに気付いた。その時代は私にとって輝かしく色あせることのない美しい時代であった。
 
 この「模倣主義を越えて」を執筆するにあたって、様々な方からの多大なご援助をいただいた。特に執筆が思うように進まない不満をいつでも真剣に聞いてくれた親友心美には頭が上がらない。この場を借りてこの本に携わっていただいたすべての方に感謝申し上げる。


中島彩都葉 「模倣主義を越えて」NZ出版社 20XX年


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