レテリジェンス(Letelligence)
Introduction
数十年前、私の盟友である左脇腹ガソリンスタンド君(後G君)が僕にこんな思想を展開してきた。なんでも彼曰く
「日ごろから私があたためにあたためてきて摂氏200度に到達せんばかりの温度に達するほどの思想ではあるのだが、盟友である君にだけは教えようじゃあないか。」
とのことだ。私はG君のことなどはっきり言ってどうでもよいのでここで彼の思想を紹介したい。
ここからは彼が私に教えてくれたことである。
My best friend=gasoline stand's thought
盟友よ、私はよく人々がつかう「世界」はマルクス・ガブリエルが著書で示したように、存在しないと考えている。
存在するのはそれぞれの主観性をもった相対的な世界のみだと考えている。その相対的な世界を私は「レテリジェンス」と名付けた。
このレテリジェンスについて説明する。ベン図を想像してほしい。
いわば集合論だ。レテリジェンスを持つものは生命体。すなわち、蟻も、牛も小さな微生物なんかもレテリジェンスをもつ。「場所」では無限のレテリジェンスが存在し、我々はそのレテリジェンスを自由自在に変化できる。
ただし、レテリジェンスは明確な限界を持つ。無意識もここに含む。しかし、その無意識も自己内では限界を持つというわけだ。例えば君がどこかを歩いているとしよう。そして誰かが君の横を通り過ぎたとする。君はその人の性格、声、視力など内面的なことまで知りえるだろうか?当然できない。そこに私は限界を見出したいというわけだ。明確な限界をもつのは確かなことではあるが、その限界の形は不定形なものである。
もしもこのレテリジェンスが単独で外部と関わらず存在しているのならそれは自己内で完結するということを示す。そしてその者の末路は決定論的であるといえよう。しかしそうはなりえない。存在は1ではなかったからだ。 生物は必ず他の影響を受ける。意識といった確固たるレテリジェンスがあるわけではなく、それは無意識が意識に影響を与えることもあり得るからだ。
共感(Sympathy)
さて、ここで他者の異質性を体験し、共感する方法を考えたい。それすなわち他者とのレテリジェンスを突き合わせることにある。互いのレテリジェンスを突き合わせて、見事重なることができていれば他者の異質性を部分的に理解できる。
ちなみに、他生物は自らのレテリジェンスの部分集合にはなりえない、すなわち、他者(他生物)を完全に理解することはできない。なぜなら、他者の身体の無意識は他者自身にもわからないからである。
しかしながらこのレテリジェンスは事物を包括することが可能である。事物とはもとより、解釈の産物であるためそれが可能なのである。しかし、包括できるがゆえに私たちはしばしば事物に規定されてしまうこともある。凝り固まった思考を持ち合わせるため、レテリジェンスが変化できず、自由を奪われるからだ。そう、我々は他者だけでなく事物からも対象化をされている。
Conclusion
最後に、このレテリジェンスの考えでは、私は自己のレテリジェンスを可能な限り広げていくことが生きることにとって善いことだと考えている。そしてそれはより多くの生命体との共通部分を持とうとすることを意味する。これを「私は無限からの呼びかけ」よ名付ける。つまるところ他者とは無限なのだ。その無限との関わりを大切にし、さらには自分が他者に呼びかけることであらたな波がうまれる。これをもとに考えてみると世界を変えるとはなんとたやすいことであろうか。隣の人に話しかけるだけで、その人のレテリジェンスに影響を与えることができるのだから。
Column
以上、G君の思想であった。彼の思想は存在論や実在論に関するものであったが私が思うに反論の余地が2つある。
1つ目はレテリジェンスはどのようにして生まれるのか?ということだ。産まれた瞬間に存在するのか受精卵としてできたのかはたまた決定論的な生まれであるのか。これこそまさに私のレテリジェンス外のことで知りえないのかもしれないが。
2つ目は他者との共感は互いのレテリジェンスを重ねることによってなされるとしたが、どうやって重ねたということがわかるのか。ということだ。互いが重ねあってると思ったとしてもそれは思ったことにしか過ぎないことであり、誰がそれを判定できるのかということである。
以上の2点から私はG君の思想はまだまだかよわい生まれたての小鹿のような思想であると考える。
とは言いつつもG君は私の正真正銘の盟友であり、若いころの彼との対話はたいへん愉快なものであった。共に老いぼれとなり今となってはもう話すこともできないが、私はG君を最後まで忘れないとここに誓う。
You are wonderful.
Goodbye my friends.
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