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無責任の体系を打破するためには


1.無責任の体系とは


 今回は現代の日本においても存在する無責任の体系を打破するために我々がとるべき行動を議論する。
 尚、無責任の体系とは丸山真男が日本の意思決定の特徴を一言で表したものであり、彼はこれについて次のように述べている。

明治憲法において「殆ど諸国の憲法には類例を見ない」大権中心主義(美濃部達吉の言葉)や皇室自律主義をとりながら、というよりも、まさにそれ故に、元老・重心など 超憲法的存在の媒介によらないでは 国家意思が一元化されないような体制が作られたことも決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け「持ちつ持たれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が命名に作用している。「輔弼」とはつまるところ、統治の唯一の正当性の源泉である天皇の意思を推しはかると同時に天皇への助言を通じて、その意思に具体的内容を与えることにほかならない。先に述べた無限責任の厳しい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性を常に内包している。

丸山真男「日本の思想」岩波新書、1999年

 
 例えば現在でも政治家が不祥事を起こした際、担当の者が辞任することによってお役御免、と開き直るといったことが散見される。また、無責任の体系は政治体制にとどまるだけではないと考える。たとえば「日本人が海外でテロリストの人質になると自己責任論が論じられ、甲子園球児の不祥事が発覚するとそのチームもろともが不出場になる連帯責任が発動したりする」₂(荒木、2019、159頁)ということもこの日本ではしばしば起こる。しかしここでは紙面が尽きてしまうため日本の政治に焦点を当てて無責任の体系を論じたいと考える。
 

2. 無責任の体系はどのようにしてうまれたか

 

2.1歴史から見る無責任の体系


なぜこのような体制が生まれてしまったのだろう。ここで日本の歴史を振り返ってみよう。第二次世界大戦後、「東京裁判の最終諭告でキーナン検察官は、元首相、閣僚、外交官、陸海軍高官などA級戦犯25名から共通して「彼らの中の誰一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかった」との答弁を聴いたと記す」₁(丸山、1964、29頁)この無責任の体系の原因は何なのだろうか。
丸山も指摘していた通り私も天皇制にその理由があると推測する。はじめは天皇への献身を建前として満州国や他国への関係から真珠湾攻撃を始めた日本であったが、戦況が悪化するにつれ、何か形勢逆転の1手を打つことが目的になった。
そこで生まれた1つの戦術が「特攻」である。ここに無責任の体系がある。「お国のため、天皇のため」といって自らの命とともに責任を放棄あるいは転嫁することが始まった。
これは他者という無限なるものに自らが有していたはずの責任を預けることにより成立する行為である。こうした社会との結びつきによりいつしか責任の明確な所在を忘れ、曖昧なまま事態が進行していくということは現在の日本でも見られる。
また、ここで強調しておきたいのが自己責任論も無責任であるということだ。先ほど、テロリストに捕まった人質の責任の例を挙げた。この場合人質がテロリストに捕まったという報道を見て「人質は捕まる可能性も承知で海外に行ったのだろう」と考える人も多数いるだろう。
しかしながらこれは結果的に他者に責任を押し付けている。これは特攻隊のメカニズムと最終的には等しくなるのだ。
 

2.2「空気」の概念


現代の日本の言葉でいう「空気」というものがある。
「空気読めよ」という風に使われる、つまりもやもやした雰囲気のことである。
この空気の概念も第二次世界大戦にかかわってくるのだが、日常でも空気を読めないことで社会的不利益を被ることがしばしばある。それは権力者の圧力であり、自己で判断することの面倒な気持ちから生じた全体のおおまかな総意であったりする。
こうした圧力や無責任の体系によって自分の意見やしたいことをするという創発性が欠如してしまうのははなはだ残念なことであり早急に手を打つべき課題であると考える。
 
 
 

3. 無責任の体系を打破するために


 
では、本題に戻ろう。無責任の体系を打破するためにはどうすればよいのか。「丸山は『天皇ではなく我々一人一人が政治的な決断を行うようにならなければいけない』と主張した」₃(杉田、2010、80頁)
しかしながらこの考え方は現在でも叫ばれることであるものの依然として政治体制は無責任であることが多い。ではどうするのか。
 私の考えとしては責任の「共有」が無責任の体系を打破するカギになる。責任の共有。それは連帯責任と同等ではない。連帯責任においては責任を課す者と課される者が存在しそこには上下関係が含まれることが多い。
責任の共有では責任を課す者も必然的に責任を負う。
すべての者に等しく責任があるのだ。

 もう少し具体的に述べよう。例えば政治においては政治家が不祥事や問題を引き起こした際、その政治家が辞任して問題を終わらせるのではなく政治家全員にとって痛手となるペナルティを課す。
 この責任をどこまでの範囲で負わせるのかは非常に難しいところではあるがここでは問題を事前に防ぐための責任のあり方が重要である。
 よってその問題を事前に想定し、責任を負う領域の範囲を細かく決めておく必要がある。そのような「体系」を新たに作り出すのだ。
再び勝ち目のない戦争に「なんとなく」進まないためにも新たな体系が必要なのだ。パノプティコン的な体制はすでに出来上がっていて監視者は国民であり被監視者は政治家である。
 先にも述べた通り無責任の体系は政治体制にとどまるだけではなく日常のあらゆるところに存在しているため政治以外の分野も研究していく必要がある。


”今こそこの無責任の体系を破らなくてはならないのだ”
 


引用文献リスト
₁[i]丸山真男「日本の思想」岩波新書、1999年
₂荒木優太「無責任の新体系」昌文社、2019年 159頁
₃杉田敦『丸山眞男セレクション』平凡社ライブラリー、2010年 80頁


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