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プラスマイナスの哲学
Introduction
人は何を基準にして事物の価値を決めるのだろうか。
想像してほしい。日常生活においてこんなニュースが流れる。
内閣支持率低調
女優○○が電撃結婚
これをすればお金がたまる
不登校者数増加
などなど。そうしたとき我々がこのニュースに興味を持った際、我々はしばしば「これは良い、これは悪い」とする。その物事の良し悪しを決めているのはなんなのだろうか?私はそこになにか明確な基準がある気がする。よってそれを論証したい。
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上の図からもおわかりいただける通り、私はアナリティクスな境界線ではなくホリスティックな境界線を言語化したい。つまりすべての事象に対して適用できるような境界線の言語化を図りたいのである。
そもそもなぜ善悪をつけるのか
境界線の問題を考えるにあたって、まずぶち当たるのがこの問いだ。なぜ人は善悪をつけるのだろう。
私はこの問いに対して心理学者マズローの提唱した欲求階層説を参照したい。
まず原始的な状況(文化・社会なき時代)を考える。この状況での善悪の基準は生命の本能的な欲求に直結するであろう。
心理学者マズローは、人間の欲求には「生理的欲求」「安全欲求」「所属と愛・社会的欲求」「自尊心」「自己実現」という階層があり、低次元の基本的な欲求が満たされることで、次の欲求が行動を支配するという欲求階層説を提唱した。
私はこの最下層の欲求=生理的欲求が原始的な状況においての善悪の基準となったと考える。
すなわち、獲物を狩り、食らえばそれは善であるし、災害が起こり、生活が乱れたのならばそれは悪である。
時代は進み、人間が特有の文化と結びついた社会を構築するにつれて善悪の基準が非常に文化的・社会的側面を帯びたものとなる。
善悪の基準は人の欲求に直結する。ここから導き出される結論は次のようになる。
Q.なぜ人は善悪をつけるのか
A.生物は欲望を持つ特徴があるから。
また人が文化、社会において他者との関わりを重視し、新たな欲望を生 み出したから。
境界線の言語化
上の問いに答えたことでもう答えが見えてきた。善悪の基準は人間の欲求に従う。
欲求が満たされるならそれは善であるし、欲求が満たされないのならそれは悪である。
では最初の例はどうなるのか。とここで反論する人もいるであろう。具体的に説明していく。
例えば新聞社、テレビ局は事実をありのままに報道するかというとそうではない。そこには必ず製作者の意図が絡むからだ。誰かが報道するニュースを選んでいるのだ。それはつまり誰かの価値基準がすでに内包されているということを示唆する。
先の例で言うならば
内閣支持率低調
世論調査などで出たこの事実に対してメディア製作者は「内閣は我々の納得いく政策をしていない」と捉え、マイナスの事実として伝える。
確かに新聞などでは感情的な記述がみられないかもしれない。だがその事実が選ばれ、報道されているということ。それ(報道されたこと)はもうプラスマイナスの事物ではない。すでにマイナスの側面を帯びている。
製作者の「内閣は我々の納得いく政策をしていない」とはまさに欲求に結びつく。自身の欲求ではなく他人の欲求を推し量ってプラスマイナスを付与していることがわかる。
したがって、善悪の境界線とは人間の欲求であるということが言えよう。
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