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自由と他由 後編
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ではお次は③の解説。
③
「自己嫌悪+人間嫌い」といったところであろうか。③に留まるようであればおそらくこの人物は死に至るか、およそ人間とは呼べないような生活を送ることだろう。さらにはニヒリズムと目的論との狭間でもがき苦しむことになるだろう。この人物は全く自由ではない。この状態を脱したいのであれば
④→②つまり自由を獲得したのち、②になる(②になってほしいのは個人的思想だが)という過程を踏むことが望ましいであろう。
まずは自己を優先しなさい。自由とは根本的には内的な思考によって獲得されるものであるから。こういって鼻息を荒げて啓蒙してみたいものだ。
加えて言うのならば他(人)に頼らず生きている人間など誰一人としていないと私は断言したい。当然の事かもしれないが。
④
頭お花畑人間ですね。これは。相対主義的にはこれはこれでよいのではないか。もうこの人が幸せならそれでよいのではないか。と放っておく立場をとることになるのであろう。しかし私はその姿勢には納得いかない。いや、もちろん幸せなのは善いことである。しかし私の夢は全員が悲しみすぎない世の中を創ることである。(なんてったって『夢想人:ドリーマー』ですから)
せめて主観的には他者のこともどうかおもいやってほしい。あわよくば他由を尊重してほしいとも思うのである。
すこし話が逸れてしまったが④には強烈なエゴイストが当てはまるということだ。
最後に
この他由という言葉は自由の初歩的な段階で用いられたい言葉である。この他由を意識するにつれていつしか自由と他由の境界線があいまいになり自由が他由になっているということは全くあり得ない話ではないからだ。
以上が私の言葉遊びに過ぎないような、それだけではないような、はたまた生産性の欠片もないような、自己優先度の高い②寄り④の人物による「自由と他由」であった。
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