泣いている母に首を締められた話

生まれた時から父はいなかった。
二十歳で私を産んだ母は水商売で生計を立てており育児どころではなかったのでいつも曾祖母が私の面倒を見てくれた。
母と過ごす時間は少なかったけど、お仕事がお休みの日は一緒におでかけしたり、私が退屈しないようにとたくさんの玩具を買い与えてくれたこともあってか寂しいと感じたことはなかった。
曾祖母はもちろん、近くに住む親戚にもたくさん可愛がってもらえたのもあると思う。

曾祖母をお馬さんごっこに付き合わせたり、晩ご飯を週五ですき焼きにしたり、誕生日でもないのにホールケーキを駄々こねて買わせた挙句、飾りの砂糖菓子しか食べないという贅沢三昧、お転婆な幼少期を過ごしていた。
今振り返ってみると叶えてもらえなかったお願い事はなかったように思える。
毎日自分が選んだお気に入りの服を着て、食べたいものを好きなだけ食べさせてもらい、欲しいものは全部買ってもらえた。
幸せの絶頂期は三歳までだったのかもしれない。

四歳の頃、母が結婚し苗字が変わり住む場所も変わった。突然の環境の変化に戸惑いはなかった。
親戚やご近所さんなど、小さい頃から大人と交流する機会が多かったので当時の私は人見知りもなく、周りの大人はみんな私を可愛がってくれる人、安心できる人だと思っていた。
義父とは家族になる前から何度か会っていたし、母が一緒にいるから大丈夫、と思っていたのかもしれない。

実際、全然大丈夫ではなかった。
義父との暮らしは地獄そのものだった。

いつから虐待をされるようになったのかは覚えてはいないが、された内容は今でも覚えている。一生忘れることはないと思う。

狭く急な階段から突き落とされたり、一緒にお風呂に入った時には頭を掴まれ、湯船の中に沈められた。

台所とお風呂場は土間にあるタイプの古い家で、脱衣場や浴室なんてものはなかった。
壁や仕切りは皆無で台所からもお風呂場が丸見え状態、むき出しになったシャワーの設備と湯船が土間の一角にただ置かれているだけのようなものだった。

トイレは外にあり、水洗式ではないドッポン便所が併設されているような家で、とにかく造りが古くてオンボロなので大、中、小とさまざまなサイズのネズミが住み着いていた。
そんな場所で義父と湯船に浸かっていると浴槽の縁を小さなネズミが走り回っていた。

ネズミがいる、と義父に言ったら「ミッキーマウスやハム太郎の仲間だよ?かわいいじゃん」となんてことない様子だった。その直後、頭を掴まれて湯船に沈められた。
あまりにも突然のことで最初はなにをされたのかよく分からなかった。
さっきまで普通に会話をしてたのに、どうしてこんなことになったのかと考える余裕もなくひたすらに沈められた。
義父の腕の力が緩み、やっと息ができたと思ったらまたすぐに沈められる。暫くそれを繰り返した。
幼い私はろくに抵抗もできず、されるがまま状態だったが、たまたま土間に居合わせた母が義父を止めてくれたおかげでその日は助かった。

別の日になると、湯船の中で大きなネズミが溺死しており、浴槽が使えなくなった。
溺死したネズミが縦にも横にもとにかくでかくて恐ろしかったことと、今日は義父とお風呂に入らなくていいんだと安心したのをはっきりと覚えている。
溺死したのが自分じゃなくてよかったと思う。

他にも紫色の痣ができるくらい強い力で腹部をつねられたり、木刀でお尻を打たれたり、毛布とガムテープで身動きが取れないようにぐるぐる巻きにされた状態でストーブの上に放置されたこともあった。

幼稚園に行かせてもらえない日はしょっちゅうで、そういう日は服も着せてもらえず、義父の気が済むまで暴力を振るわれる。
義父の気が済んだら狭くて暗いクローゼットの中に閉じ込められるか、義父の実家で飼ってるワンちゃんと一緒に糞尿まみれの押し入れの中で過ごしていた。

ご飯を食べさせてもらえないことも多々あった。
夜はパンツ一枚で土間に放り出されて肌寒い中、放置されるか義父と母が眠る枕元に立たされていた。
睡魔に耐えられず足元がふらついてしまったり、床で猫のように丸くなって寝ようとすると義父に怒鳴られた。

私は生まれつき左利きだったが食事中、義父に「箸を持つ手は右だろうが!」と怒鳴られ箸を投げ付けられた。
勢いくよく投げ付けられた箸は、私の真横をすれすれに飛び、後ろにあったゴミ箱のフチにぶち当たり真っ二つに折れた。
その頃には義父に対して恐怖心しかなかった。
泣けばもっと酷いことをされると子どもながらに理解していた。
私は泣くのを堪えて、大きな声で「はい!」と返事をしたあと箸を右手に持ち替えて食事を続けた。
それ以来、ずっと右利きになってしまった。

こんな辛い状況の中でも誰かに助けてほしいという考えはなかった。

なぜかあんなにも大好きだった曾祖母がいる家にも帰りたいとも思わかなかった。
そもそも幸せの絶頂期だった日々がすっぽり抜け落ちてしまったようで義父の家にいるときは思い出せなかった。

後に分かったことだが、虐待を受けていた当時、解離性障害を発症していた。
幸せだった過去の自分と虐待を受けてる今の自分を切り離すことで心のバランスを保っていたせいか一時的に幸せだった頃の記憶がなくなってしまい、助けを求められなかったのかもしれない。

義父の実家には義父のお母さんや兄弟もいたが、みんな義父に逆らえず、助けてくれる人はいなかった。
また、2階にある義父の部屋に軟禁されていた状態だったため義父の家族と接する機会はなかった。

ある時、夜中に私が水を飲みたいと言い出し、台所まで母がついてきてくれたことがあったらしい。
その時に私は「なんで毎日こんなことされるの?」 と尋ねたらしく、それに対して母はただ「ごめんね」と謝ることしかできなかったと話してくれた。
二人きりで会話することを義父に禁止されていたようで、これが私と母の唯一の会話だった。

この家に来てから母と会話をしたり、抱きしめてもらった記憶はないけど、母が私の首を締めた時のことは今でもはっきり覚えている。

いつもの義父による虐待の延長線で、私の首を締めるよう母に命令をした。
母は床に落ちていた子ども用の緑色のパジャマのズボンを使って私の首を絞めた。
物が散乱する床の上で仰向け状態の私は、母が震えたり、絞める力が強くなるたびにテレビ台の脚に頭をぶつけた。
首を絞めている最中、母はぼろぼろ泣きながら何度も何度も私に謝っていた。
首を締められている苦しさよりも、泣いている母を見て悲しくなってしまい涙が止まらなかった。
幼いながらにも母が苦しみ、辛い思いをしていることは分かっていた。このことで母を恨んだことは一度もない。
ただ、今でもこのできごとを思い出すとつらくて泣いてしまう。

義父の家に来てからは毎日が地獄だった。
虐待が発覚したのは一年経ってからだった。

幼稚園で身体測定があり、その際に先生が私のお腹にある大きな青痣を見つけた。
その日のうちに児童施設に保護された。

児童施設で生活するようになってからもいろいろトラブルはあったものの、無事に幼稚園を卒園し、小学校へ入学する前に母が迎えに来てくれた。
約一年ぶりに再会した母は義父との間に子どもを授かっており、男の子を出産していた。
母と私と弟の三人家族でしばらくの間、母子寮にお世話になることになった。

虐待を受けた日からおよそ十四年後に義父だった男が逮捕された。
そのことは小さな記事だが、新聞やネットニュースにも取り上げられていた。 
逮捕理由は児童虐待によるものだった。
私たちがあの家から逃げ出したあと、元義父は別のご家族にも同じようなことをしていた。

この事件を知った母は心苦しそうだった。
十四年前、勇気をだして声を上げていればもっと早くに然るべき措置をとって未然に事件を防ぐことができたかもしれない、と。 

当時は声を上げることもできないくらい怖くて、元義父に見つからないようにと毎日を怯えながら生きてきた。ただ、怖いと思う一方で被害者の実態を多くの人に知ってもらいたいとも思っている。
ニュースや新聞では伝えきれないことがたくさんあって、虐待を受けていた当時の状況、その後のことも知ってほしい、と思った。

なので自身の幼少期について自己紹介も兼ねて書かせていただきました。

現在、アダルトチルドレンとして生きる23歳です。

虐待という行為が一日でも早くこの世からなくなりますように。





この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?