私にとって、”作る”ことは救済だ



私の思考ルーティンは、複雑なように見えて単純だ。


自分や周囲の言動に一喜一憂し、悪い部分を見つけ、ただひたすら落ち込む。
これだけだ。




友人のことも好きだし、職場の人へも感謝している。
ポジティブな感情は確かにある。本当に。

だが、何故か苦しいのだ。
一人でいても、頻繁に友人や職場の人の顔が浮かべては、落ち込んでしまう。
他人が傷つかないレベルの些細な言動や表情、態度などがインプットされていて、
その嫌な瞬間を何度も脳内で追ってしまう。

脳内で追うたびに、疲弊する。
「私もあいつが嫌いだ」「あいつも私を嫌ってるに違いない」
など、ありもしない極端な暴論で片付けようとして、
「ところで私って何様なの?」と自分に辟易する。で、また辛くなる。


人と一緒にいるのは楽しくて苦しい

現在、出せる結論はこうだ。
私にとって、「人と一緒にいるのは苦しい」ということ。
一人では生きていけないし、人と一緒にいるのは楽しい。

だが、私は人と一緒にいながら、「どこにも居場所はない」と感じる。
まず、会話が苦しい。力が入る。
会話の量とか、タイミングとか、相槌とか、愛嬌とか、慎重になる場所が多い。
コミュニケーションが苦手な分一生懸命対応しようとして、疲れてしまう。

楽しいけど、どうしようもない疎外感を感じている。
きっと、これ以上仲良くなることもないんだろうな、なんて寂しく思う。
この先も、誰とも分かり合えないまま消えてしまうのでは?
誰にも理解されないまま、一人で生きていくの?

そんなことを考えては、泣いてしまう。
人には絶対言えない面だが、非常に面倒な感受性の豊かさだ。
大人になっても、涙もろさは変わらない。

この厄介な孤独感により、人よりも、作ることに救済を求めることになった。


作ることで自分の孤独を埋める

人の輪に入れるように最善を尽くしているが、なんだか報われない。
気が休まらない。あいつは私のことをどう思ってるか、なんてしょうもないことを考えて、心を疲弊させるのみ。

だから、私は作ることにした。
絵を描くなどの創作はとても楽しい。
人への耐性がないのは変わらない。変な気の遣い方をして、浮いて、チグハグな会話を続けて自己嫌悪という流れが辛い。
誰かと一緒にいたいけど、とにかく寂しくて悲しいけど、
私はやっぱり一人でいる方がいいんだと思う。


作るという行為は大変だが、気楽でいい。
自分の判断で進んでいけばいいし、誰にも邪魔されない。
誰の顔色を気にせずに、やりたい放題できる。
環境や人はコントロールできないけど、一人なら全て自分がコントロールができる。

私が集団となじめるような性格だったら、引きこもって絵なんて描かないと思う。
作る行為は大変で、億劫で、めんどくさい。気楽だが、辛いこともある。
だけど、外の世界の辛さに耐えられないから、人と一緒にいる時に安らぎを感じたくても感じられないから、仕方なく作っている。


家から一歩も出ず、ずっと絵を描いたり、グッズを作ったりなどしている。
自己嫌悪の連鎖を止めるには、人付き合いを諦め、外の世界と距離をとり、自分を守り、それでも「私はここにいるよ!」と作った作品を外の世界に発信する。これが今の自分にとっては大事なんだろう。


楽しいけど、作れて嬉しいけど、時々泣きたくなる。この方法でしか、自分を救済できない。
いつか、この孤独感を埋められるのだろうか。面倒な自分も、いつか…?


このじめじめした性格も、制作する上で大いに役立っている。
細かなところが気になるから、重なる修正もやっていける。
完璧主義も悪くない。この性格で良かったとさえ思う時もある。


人付き合いのスキルは皆無で生きづらいことに変わりはないが、プラスな部分もある。辛い思いをしてる分、他の分野で楽しめることがある。

私にとって、”作る”ことは救済だ。







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