「あの年の夏は、私たちのものだった」
先日、韓国ドラマ、「二十五、二十一」を鑑賞し終えた。
ラブコメでもスポ根でもない、「人生ドラマ」に、悩みを抱えていた私は馬鹿ほど泣いた。
数々の名言に心動かされたこのドラマ。あらすじなどは割愛するが、軽く所感を綴っておきたい。
今22歳の私にとって、このドラマのテーマは「刹那の輝き」であるように見えた。
IMFや9.11。一人のしがない人間にはどうしようもない出来事たち=「時代」に、主人公の若者たちは大きく人生を動かされていく。
それは、変異を続ける未知のウイルスに翻弄される私たちを見ているようでもあった。
それらの出来事はマクロなレベルでは、歴史の1ページとして、ひとつの「時代」のひとつの「事実」でしかないのかもしれない。
しかし、ミクロなレベルでは、一人一人の人生を、彼らの歯車を確実に着実に狂わせていく。
確かにそこにあったのに、時代に翻弄され、叶わなかった愛。
それはとても切ないようで、この作品の結末を「サッドエンド」と見る人も多いようだが、私は「サッドエンド」とも「ハッピーエンド」とも位置付けたくない。
そのことが、ドラマにおいても、私たちの人生においても、「救い」になるような気がしている。
劇中のこのセリフが、全てだ。しかしこれは特別に悲観すべきことでもない。
「今」の「私」が思っていること、見えているのは、「今」に過ぎないからだ。そこから、「未来」を見据えることなんて、できなくて当然なのだ。だから、「思い通り」になんて、なる方がおかしいのだ。
それでも。
頭ではわかっていても、夢のような時間や愛、友情を知ってしまったら、それが永遠に続いて欲しいと願ってしまう。
私にだって、そう願った瞬間がある。
この世のものとは思えないほど青い海を前に、境界を歪ませるほどに輝く日が背をじりじりと焦がしてゆっくりと沈んでいくのを感じながら。
10話の海の名シーンのあと、大人になったヒドの言葉が続く。
こんな言葉もあった。
また、大人になったヒドは、当時の日記を見ながらこう振り返る。
私たちにとっての「花火」は、確かに一瞬に過ぎないのかもしれない。その輝きや高揚、戸惑いや幸福は、長く、永遠に続くものでは決してない。
しかし、例え「一瞬」のものであったとしても、確かにその輝きがあったという、ただそのことこそが大事なのだ。
「永遠の輝き」が錯覚であったと悟ること。
それは確かに、現実を受け入れ、「大人になる」ということなのかもしれない。
しかしそれは、「諦め」とはまた違うのだ。
例えその輝きが刹那的なものであったとしても、確かに存在していたもの。
一瞬であったとしても、確かに瞬いていた花火。
それだけは揺るがない事実だ。
「今」からは決して見通せない「未来」。
だから、人生は思い通りにいかない。だから、「確か」なものなど何もないように思える。
でも、「確かに手に入れた」と思える瞬間がありさえすれば、それだけで充分なのだ。
このドラマには、人生を俯瞰するヒントが隠れていた。
18歳と22歳から始まって、21歳と25歳、そして22歳と26歳までの間。
ちょうど真ん中にいる22歳の私の悩みは、きっと「花火」の輝きに「永遠」を期待し、それを手に入れたように錯覚して、そして手放すことも知る、そんなはざまに居るからなのだろう。
子供も大人の境界は18歳って、誰が決めたわけでもないのになんとなく通っている気がするし、なんとなくそう思っていた。
でも、22歳の私も、劇中の22歳のイジンも。
まだまだ大人なんかではなくて、「花火」に翻弄されている真っ只中だ。
でも私はこのドラマを通して、そのことを、少し客観的に把握できた気がする。
きっとこの先もしばらくは、「騒々しい友情と熾烈な愛」にたくさん戸惑い、幸福感を得る度に激しく傷つきながら、時を過ごしていくのだろう。
そうしているうちに、何かを失っていったとしても。
「あの夏は、私たちのものだった」そう思うことができる一瞬さえあれば。
そうやって、きっと私は生きていける。そう思えたドラマでした。
素晴らしい作品に感謝。