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スーパームーンと金木犀

夏とも秋とも言えそうな9月の日の夕方。

低い東の空に、燃えるように赤くてでっかい月が浮かんでいた。

その日、私は友人と田舎で子供のように遊んでいて、ちょうどロープウェイで山を降りている時だった。

ロープウェイの曇ったビニールの窓の隙間から赤と橙の間のような強い光が見えて目を疑った。


街灯???


人工的なものかと見間違うほどの光。

そうだ、今日はスーパームーンだった。

不透明なビニールの窓から必死で見ようとしてもなかなかはっきりとは現れてくれないその大きな月に、はしゃぎながらももどかしがった。

なんとしてでもこれをおさめたい。
その衝動に駆られてスマホを取り出し、夢中で写真を撮った。


わいわい言いながら私たちはロープウェイを降りた。 

肉眼でその大きすぎる月を捉えた。
切り絵の後ろから光を当てたように妖艶に輝くそれは、まさか自分で光っていないなんてにわかに信じ難いほどの存在感を放ってそこに居た。

かと思えばすごく美味しそうな醤油漬けの卵黄のようでもあって、なんだか可愛らしくもあった。

「伝えなきゃ」

私がこの月を見た瞬間に思い浮かべたのは、遠い国、ヨーロッパのどこかにいる彼だった。

私が今この目で捉えている風景を伝えたい、伝えなきゃいけない。

その、ほとんど脳死の状態で降りてくる衝動が、私にシャッターを切らせていた。

慌ててLINEを開く。

向こうは朝のようで、ちょうど雨の音で目覚めてしまったその人からすぐにリアクションが返ってきた。


写真は残念なものだけれど、とにかく見たこともないような月が見えていること。
それを見た瞬間にあなたを思い出したこと。
そしてそれを伝えたくなったんだということ。

指が燃えるのではないかと思うほどにせわしくスマホを叩いて訴えた。


ふと我に返って、ああこれが「好きだ」ということだと思った。

ある人を好きになっても、自分も他人も変わっていくのだから、普遍的に魅力的な「要素」を持ち続けることは難しい。

「好き」という感情に、その感情の「根拠」となる絶対的なものを据えるのはほぼ不可能に近いのだ。

友人ならば、互いに変わってしまってもなんとか誤魔化し、エンドラインを延長し続けることができる。
しかし、恋人となればそうはいかない。

恋人だからこそ「何が好きかわからない」こと自体が「赦せ」なくなり、引かなくても良かったかもしれないエンドラインを引かざるを得ないことがある。


でも、どうだろう。

自分たちが生きる宇宙のダイナミズムの一部にいることを突きつけてきた恐ろしいほどに美しい月を見た時。
「これを伝えたい」と思うことは、紛れもなく「好き」だという感情だ。

と私は思った。


考えてみれば、太古の昔から、国や文化に関わらず、人々は月を見て人を想ってきたというし、数々の詩歌や作品が残されている。


私もその「人間」として生きとし生けるものたちの仲間に自然に入れたような気がした、そんな夜だった。



その人が帰国して数ヶ月後。
私たちは日常と物理的距離を取り戻し、普通に生活をしていた。

「金木犀がとってもいい香りだね」

私がアルバイトをしている間。
写真と共に彼がそうLINEを送ってきてくれていたのを見て、わたしは胸がきゅんとなるのを感じた。

「もし良かったら、どこかで待ち合わせして一緒に金木犀の香りかごうよ!」


無邪気に続ける言葉に、その人の顔が浮かんできて、私の口元はまた綻んだ。


という話を、仲の良い友人に話していたので、彼女がこのタイトルを見れば一瞬で私だと気づくだろうが、ぜんぜんいいです。

万が一見つけたのなら、一言くれてもくれなくてもいいよ!