見出し画像

中指を立てて笑って




寛容な人になりたかった。

あらゆる物事を許し、受け入れ、祈ることができる人。

10の悪意に対して、それを10の善意、いや、100の善意で受け入れられる人。

目指すものではなく自然とそんな人間であることが理想ではあったが、少なくとも私がこの世に生まれ落ちたとき、悲しくもそのような性質を持ち合わせてはいなかった。

持っていないからこそ憧れたし、意識をした。

相手の心ない言動には何か背景があるかもしれない。
自分が原因かもしれない。
わざとではないかもしれないから、怒らずに受け入れよう。

そう意識していたのはいつまでだろうか。
いつしか本当に自分の中から怒りという感情は消え、たとえ自分が尊重されなくても笑って受け流すようになっていた。

私としては理想の「寛容な人」に近付けているように思えていた。

しかし、私ができていたのは、10の悪意を5の善意で受け流すことだけ。
受け流せなかった残りの5の悪意は、着実に私の心を傷付け、蝕んでいたのだ。
受け入れることなど、到底できていなかった。

それに気付いたとき、私は寛容な人を目指すことをやめた。



人から与えられた心ない言動を、私は笑い話にしてきた。
受け流せなかった5の悪意で自分が傷付いている事実を認めたくなかった。

付き合ってる人に殴られちゃってさ。
初めて会った人にブスって言われたんだ。
恋人がいる人に告白されたんだけど。

笑ってもらうことで、自分の中で折り合いをつけていた。

でも、私は向き合うべきだった。
少なくとも笑いに昇華できるものではなかった。

恋人に殴られたのであれば、殴り返すべきだった。
容姿を馬鹿にされたのであれば、どれほど下品なことかと怒鳴るべきだった。
恋人がいる人に告白されたのであれば、舐め腐るなと胸ぐらを掴むべきだった。

本当に自分を守るものは、あのとき必要だったものは、怒りだったのではないだろうか。


私のTwitterには驚くような内容のDMや引用RTが届く。
私の投稿内容が不適切なものであり、それに対する指摘や非難であれば甘んじて受け入れよう。


私が友人との写真を載せたとき。
「ブスのくせに○○くんと遊ぶな」

私が「明日晴れるといいな」と呟いたとき。
「キモい」

私が「仕事辛い」と呟いたとき。
「じゃあ死ね」

もちろん、私の過去の言動で直接的に傷付いた人が送ってきている場合もあるだろう。
しかし、これは私に限った話ではない。
他人の容姿や言動を非難するようなコメントをSNSではよく見かける。
それもわざわざ引用RTといった形やスクショを載せて、相手に届くように発信するのだ。

自分の人生に関係の無い人間を、正当な理由もなしに攻撃する人たち。
奴らは攻撃することを止められない。
もはや「人」と形容することすら憚られるような生き物に、社会の道徳や理想を持ち出してはいけないことを悟った。

こんなクソ野郎たちにも親や友人がいて、大切な人がいて、何か信念を持って生きているのだろうか。

「そういうのを無視できないならSNS向いてないよ」

そんなことを言われた。
うるせぇ。
明らかに向いてないのは向こうだろうが。
いじめられる側にも問題がある理論みたいな気持ち悪い理論を出すな。
私が彼らのサンドバッグにならないといけない理由など存在しないのだから。

「ブスのくせに○○くんと遊ぶな」
「キモい」
「死ね」
うるせぇ。うるせぇ。
お前が死ね。

最近、私は10の悪意に対して1000の悪意で返すようになってしまった。

私の人生に登場しない人物に、傷なんて絶対につけさせない。
100倍返しでボコボコにしてやる。
スカッとする。

スカッとする、と思ったけど。
実際はやはりそれ以上にモヤモヤする。
同じ熱量で言い返したり、汚い言葉を返したり、怒りをぶつけたり、まったくいい気分にはなれない。

それはやっぱり、私の中の「寛容な人」や「善意溢れる人」への憧れが消えていないからだと思う。
なんだかそれに少しだけ安心する。

だからといって、怒ることをやめるのではない。
そもそも、寛容な人だって怒りは持ち合わせているだろうから。

自分に合った怒り方で折り合いをつける。
10の悪意には5の善意と5の悪意を。

私はこっそりと中指を立てる。
中指を立てて、笑って生きていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?