どうしようもなく優しい世界で
頑張らなくていいよ。
無理しなくていいよ。
生きてるだけで偉いんだよ。
肯定してくれる世界の優しい言葉たち。
うるせぇよって思う。
黙ってろって思う。
本当にそれだけでいいのなら、私たちはこんなにも悩まない。
本当はわかってるんだ。
それだけじゃいけないってことくらい。
何のために働くのだろう。
何のために生きているのだろう。
自分という存在は一体何者で
本当の幸せは何なのか。
悲しくも考え続けられる頭を持ってしまっているから。
こうした世界の甘言は、人と比べることや競争を悪とし、自分だけが自分の価値を決めることのできる存在として認めている。
もちろん、自分の価値はみだりに人によって下されたくないし、下されていいとも思わない。
それでも、社会に生きる私たちは人による価値判断なしには生きられないようにも思う。
他者との比較無しに自分の輪郭を保っていられる人間が、この世界にはどれほど存在するだろう。
自分で自分の価値をつける。
私はそれが怖くて仕方がない。
まず、そもそもそんなことが可能なのかと疑ってしまう。
いわゆる「自由による不自由」と同じ状態に陥ってしまうのではないだろうか。
生き方に正解がない、自分の価値は自分で決める、すべてを自身の手に委ねられると途方に暮れてしまう。
結局「社会」という軸がないと私たちは自分の価値すら決められない。
「自分らしく生きましょう」という言葉の中には、「自分らしく生きて社会に認められましょう」という意味が隠されているように思う。
もし自分の価値を自分で決められたとしても、それはときにひどく残酷な面を持ち合わせているとも思う。
自分で自分の価値を決めるということは、逃げ道がなくなってしまうからだ。
他者からの価値判断には否定や反抗ができたとしても、自身による価値判断は否定のしようがない。
もしその判断を適切に行い、もしその判断が認めたくないものであった場合、すぐには癒えない深い傷となるだろう。
私は自己評価の高い人間であるが、本当に頑張ったり何かを成し遂げている人を見ると、途端に虚無感や自身への嫌悪感に襲われる。
私も頑張ってきたと思う。
いや、頑張ってきた。
涙をこらえて、歯を食いしばって頑張ってきた。
誰に何と言われようが自分なりに頑張って生きてきたつもりだ。
頑張って頑張って頑張って、
疲れて困って悲しくなって頑張るのをやめてしまった。
そう、やめてしまったのだ。
今となっては頑張ってる人の邪魔をしないように生き、自分が頑張らなくていい理由だけを探している。
努力が報われないことが嫌なのではない。
努力をしなくても報われる人がいる事実に折れてしまったのだ。
自分のための努力であるはずなのに、世界に目を向けた瞬間にバカバカしく思える。
ずっと同じところでもがいている。
結果よりも過程とはよく言うが、結果なしに自分を認めてあげることなんてできない。
頑張れない自分を許せないのは、結局、社会ではなく自分なのだ。
それでも、自分のために頑張ってあげられるのは自分しかいない。
もしかしたら、生きてるだけでも偉いのかもしれない。
そもそも自分に価値をつける必要もなく、偉いとか偉くないとか、生きることに意味をつける必要がないのかもしれない。
無理しなくても、頑張らなくても、幸せに生きられるのかもしれない。
ただ、私はそんなこと言いたくないし言われたくもない。
だって頑張りたいから。
どうしようもなくダメな自分が嫌いだから。
自分に期待して、自分に失望してしまっている。
そんな自分を助けてあげたい。
ただ、自分のために頑張ることができるのは自分だけだとわかりつつ、もはや自分のためだけには頑張れない。
誰かのために生きられるのであれば、それだけは絶対的な価値になるような気がする。
友達でも恋人でも社会でも何でもいい。
私のために誰かがいるのではなく、誰かのために私の人生があってほしい。
そのとき、ようやく私は自分の価値を傷付くことなく認めてあげられるのではないだろうか。
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