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「はやく産みたい。。。。オエっ」

2015年夏。

当時27歳だった私は大阪の実家で寝たきり状態になっていた。

体重は40kgまで落ち、歩けなくなり、トイレまで這いつくばって移動した。



” 赤 字 会 社 再 建 ”


私のキャリアは少し特殊だった。

新卒で入社したWEBマーケの会社は当時、ネット広告代理店TOP3に入る上場企業だった。

クリエィティブ部の配属を希望したが、配属先は、赤字のグループ会社。

その赤字会社をAと呼ぶことにしよう。

赤字会社Aは結構大きな通販会社だった。しかし、膨大なリストを保有したまま倒産。100名の社員がいた。それを、私が入社したWEB会社が買収したというわけだ。

私はその赤字会社に、出向となる。

ミッションは「ECで黒字化せよ。」

出向メンバーは、6人。

元々働いていた100人の社員からすると、「親会社のやつらが来たぞ。」という感じ。

新入社員で右も左も分からないまま、相当イケてない上司に恵まれながらも、とにかく「再建させるんだ」と朝から夜まで働いた。ルールを変えて、仕組みを作った。

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         (当時の店長ブログが出てきた。。w)

EC事業部を売上0円から月商3,000万円まで育て、入社3年目でマネージャーとなり、8人いたメンバーはほぼ40代だった。

何度、悔し涙を流しただろうか。

当時、非常階段とトイレが私の泣く場所だった。

一通り泣くと、またデスクに戻って仕事の山を片付けた。

精神を病み退社したあの上司も、自分の役職を守ることに必死で裏で様々な工作をしたあの上司も、みんなの前で「部下は上司の言うことだけ聞いとけばいいんだ!」と怒鳴り散らしたあの上司も、最後は、不正を働いて退社した。

とにかく、色んな嫌な目に合ったが、私はいつでも「この会社を再建するんだ。」という意志一つで突き進んだ。

若気の至りで、ブルドーザーのように突き進む間に怪我をした人もいたと思う。よく隣の部署の40代のマネージャーと喧嘩をした。

ただ、当時は「何が何でも再建するんだ」との一心だった。

その行動は、誰が見ていなくとも、じわじわと知らないうちに私の環境を変化させた。



” 仕 事 が 輝 き 出 す と プ ラ イ ベ ー ト も 輝 き 出 す 問 題 ”


EC事業部のマネージャーとなり、直属の上司が社長となったことで随分と自由にやらせてもらった。

このまま毎月自転車操業で、無理やり黒字を出してもだめだ。

経営を学ぼう!と思い、グロービス経営大学院に入学する。

授業の日は江戸堀から自転車で心斎橋までかっとばし、授業を受け、梅田まで興奮気味に自転車を漕いだ。

そこから電車に乗り、帰宅する。

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いつもBGMは東京事変の閃光少女だった。



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経営を学ぶことで視点がガーンと上がった。

そんなイケイケの頃、親会社で年に1度、未来の幹部候補を決定づける試験があった。

論文審査や経営陣との面接などを突破した2~3名程度が毎年そのプログラムに合格する。

卒業生はグループ会社の社長になったりと、経営陣候補のゴールドバッチがもらえるみたいな感じ。

イケイケだった私は、グロービス で学んだ全てのあれこれや自分の人生哲学を詰め込み、書籍化できるのではないか?と思うほどの論文を書き上げ、経営陣面接も何とか突破。

女性で2人目となるゴールドバッチをもらえた。

社長もとても喜んでくれた。

ずっと日の目を見ない赤字会社で頑張って、ようやく人材という日の目を見た!的な感じだったのだと思う。


こうして仕事が輝き出すと、プライベートも輝き出してしまう問題発生。


運命の人(夫)と出会ってしまったのだ。

この出会いは、今までの人生で起きた全ての出来事、最悪なことも含め、全ての点と点が、この人に繋がっていたんだ!と腹落ちするものだった。

夏に出会って、次の夏には大阪市役所に入籍届を出していた。



” キ ャ リ ア カ ー ブ を ぐ ん ぐ ん 登 る ”


プロポーズされた翌日に東京転勤を命じられた。

好奇心旺盛な私は「これは、、、ネタになる!!」

彼を大阪に残し東京へ。

中野坂上駅から徒歩2分の、家賃11万円。5階。エレベーターなし。エアコンなし。という物件に住んだ。

遠距離のまま、式場を決めたり、結納を済ませたり、入籍を済ませたりした。

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営業1課に配属された。

売り上げの多い、キラキラした目立った人たちが集まっている課だった。

通販会社の平均年齢はおそらく50歳くらいだったと思う。

だから、平均年齢27歳そこそこの本社に戻って、とにかく若いエネルギッシュな雰囲気を楽しんだ。

世界一面白いと思う同期が3人くらいいて、デスクが近くて嬉しかった。

入社してすぐ出向になったので、98人いる同期との繋がりは薄い。

今は会社を去って別のチャレンジをしている人が多いけれど、どこかでまた会えたらいいなと思う。

仕事内容は、営業なのに営業目標を持たなくていいという摩訶不思議なポジションだった。

おそらく、「どうやってあの子を活かそうかな?」と思ってくれていたんだと思う。

部長はイケメンで、飲むと右翼みたいになるが、普段は「The会社名」というカリスマ性のある人だった。

営業は末端だ。

ほとんどの会社が、この末端の営業マンによって成り立っている。

情報をたくさん持っているのは経営者ではなく、末端の営業マンなのである。だから、この営業マンの思考が未来の会社を創り出す。

出世のことや、今月の達成のことで頭がいっぱいという感じが見てとれた。

言葉では顧客ファーストと言いながら、実際はクライアントの商品を自費で購入し、CVRを上げ、月次報告を繕う営業がいたり、スタッフとの調整さんになっているだけで、結局その提案は本当にあなたの考えたものなの?と思うこともあった。

どこの会社でも、このような事が起きやすい職種が営業ではないだろうか?

原因は、経営者が順番を明確にしないことと、ビジョンが社員に共有されていないことだと思っていた。

経営者は1番は顧客、2番は利益。と明確に順番を示さなければいけない。「どっちも大事」と濁すから、こんな事が起きてしまう。

もちろんこのような営業はほんの一部にすぎず、大多数は、”与えられた目標を達成すること” と ”クライアントファースト#という相反するものを自分の価値観に基づき上手く処理していた気がする。

パワーも影響力も何もない私は、ビジョンを浸透させるために私はどう動けばいいんだろう。ってかこの会社のビジョンって何だっけ?と公式HPを見返したりしながら、様子を伺う日々を過ごした。

そして、遠距離中の夫と会える日を数えながらコンクリートジャングルの中を歩いたり、走ったりした。

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” キ ャ リ ア よ さ ら ば ! ”


新宿にある巨大なビル。

人間が多い。

みんな歩くスピードが速い。

スケルトンの巨大なエレベーターが交互に上下している。

28Fのオフィスにたどり着くまで2つもエレベーターを乗り継がなければならない。

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生き生きと仕事をする若い社員達を眺めながら、出世や今月の達成の話を聞くたびに「違う。」という違和感。

そんな状態が半年過ぎた頃。


この頃は、もう完全に 飽きていた。


週末は大阪に戻り、式場巡りをした。

有休をとりまくり旅行に行った。

そんな時、本部長から飲みに行こうと誘いがあった。

組織を大きく変えていこうと思ってるから、一緒にやろうと。そして論文をとても褒めてくれた。

純粋に嬉しかったのと、パワーと影響力が効きやすいポジションにつくことで価値を提供できるかもしれないと思った。

おそらく、その5日後くらいのことだったと思う。

妊 娠 発 覚 。

3日後から酷い悪阻が襲ってきて何が何だかわからないまま、会社にも行けず、病院にも行けず、クーラーのない真夏の部屋で寝たきり状態に突入。

すぐに夫が駆けつけた。

産婦人科が祝日でどこも空いていなかったので緊急外来へ。

そして、

「尿検査の結果、ほぼ流産しています。」と医者から伝えらえる。

私は待合で倒れていたのでその言葉は聞いていない。

夫は、「流産」という言葉を胸にしまったまま「尿検査が反応しないみたいだから、大阪の産婦人科でちゃんと見てもらおう。」と私に言った。

数時間後、急遽大阪へ帰ることになる。

中野坂上駅から新幹線に乗車するまで、吐きそうなのを我慢して目をつむったまま移動した。

この日から、実に7ヶ月間寝たきり生活が続くこととなる。



” 重 症 妊 娠 悪 阻 ”


とにかく毎日何十回も吐いた。

1日中ベットで寝る。意識がある時は壮絶な吐き気が襲う。

食べないと気持ち悪いけど食べると吐く。

「ケトンが出てるね」と検診のたびに言われる。

体が飢餓状態になるとケトンという物質が尿に出るらしい。

入院を強く進められたが、心細くて拒否。

毎日の点滴通いで命を繋いだ。

1度、人事や本部長と電話で話をしたが、スマホを見ると吐いてしまうので、週末夫が実家に来た時に代わりに見てもらい、返信してもらった。

重症妊娠悪阻 は普通の悪阻ではない。

確率的には、妊婦全体の1~2%らしい。

悪阻が落ち着いてから、こういう状況でしたと会社の人に連絡をしたら

「聞いたことない悪阻ですね。」と言われた。

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” キ ャ リ ア 断 絶 ”

とにもかくにもゲロゲロ状態。

それはつまりキャリアの断絶を意味していた。

吐き気の中、「まだ終わらせない」と謎の拳を突きあげ、

グロービス だけは休学にしたが、結局長男が生まれた後に中退した。

退学届けを出しにベビーカーでグロービス に行った時

「また学びを再開しようと思われたら、単位もそのままなのでいつでも可能です。」と言われた。

子育てというここでは決してできない学びに集中するんだよ。独身女め。とイラっとしたことを鮮明に覚えている。

キャリアが中断し、積み上げてきたものがなくなる喪失感は、人を偏屈にするんです。

ごめんなさい。


” 育 休 中 の 立 ち 上 げ  ”


まだ何も成し遂げてないけれど、成し遂げれる環境は整っていた。

「私はできたはずなのに。」という想いはずっとあったと思う。

私はこのままでは終わらないとか、何者かになるんだという思いが根底にあった。

「流産しています。」と言われたはずの赤ちゃんは、元気にオギャーと生まれてきた。

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動けなくなるほどの悪阻でなければ、私は東京に1人残って仕事をしていたと思う。本当に流産してしまってたかもしれない。そしたら、長男には出会えていない。

長男が可愛過ぎて、夫も優し過ぎて完璧に幸せなんだけど、

夫の仕事の話を聞いて「いいな〜〜〜私もやりたい〜〜〜」と泣く日々が続いた。

FBで活躍する同期や仲間を見ると、私もそっち側にいたのに。と思ったりもした。

自分の積み上げてきたものが身体中からポロポロこぼれ落ちていく感覚。

このままじゃダメだ!

何か始めないと死ぬ!


そう思って、ECサイトを立ち上げることにした。

長男が生後6ヶ月くらいの頃だったと思う。

最初は「ファーストバースデーのドレスや飾りをレンタルできる通販サイト」というコンセプトで5万円くらい仕入れをした。

が、送料が高くてこれはビジネスにならないと思い即方向転換。

北欧テイストのベビー服をセレクトしたお店にした。

最初の売り上げ、1,380円。

この最初の売り上げまでのあれこれが、私は最も興奮するらしい。

0→1が大好きみたい。

SNSを駆使して広告費を一切かけずに集客した。

子どもが寝たあとで、検品や発送をした。

パパが帰ってくるまでは、子どもと2人きり。

仕事ができるのは1日2時間程度だったけれどストレス発散にはテキメンだった。

しかも年400万円程の売り上げを作った。

私の経験してきたことや、スキルは流れ落ちてなかった。よかった。。

ママになったことで、子育てママが何というキーワードで検索するのか、何の情報を知りたがってるのか、どんなメディアを見るのか、それは何時頃なのか、手に取るように分かった。

途中からは次男も生まれて、1人では作業が追いつかなくなったので田舎に嫁いだ友達たちに出荷作業をお願いした。



” 都 会 で ワ ー マ マ ”


2017年。

久しぶりに復帰をした。

大阪支社はグランフロントに移転していた。

相変わらず人が最高で、子育てしながら仕事をすることに理解がありすぎる最高な上司にも恵まれた。

仕事内容はこれまた特殊で、東京本社にあるエンジニアチームにジョインして、社内のBIプラットフォーム化プロジェクトを進めた。

1番好きで得意な仕事が通販の立ち上げや運営、ネット集客だったけれど、時短勤務からのスタートだったのでフロントには立てない。

したい仕事ではないけれど、この経験は絶対に役に立つんだと思い込んだ。

時短勤務になると給与がほぼ半分になる。

これは割りに合わない。ってかフリーランスになった方が割に合うくらいだと思って、途中からフルタイムに戻った。

この時は、会社を辞めるなんていう選択肢は全くなかった。

新卒で入社した会社を辞めるということは、大好きな彼と離婚するくらいに思っていた。

今考えると本当に不思議で仕方がない。

自分のライフスタイルに合わないんだから、とっとと会社を辞めて自分に合う働き方を選択すればいいだけのことなのに、

「恩返しをまだしていないから、恩返しをしないと辞めてはいけない。」

と思っていた。

母と夫と私、大人3人で子ども2人を育てた。

9時から17時まで会社にいなければいけないのは、子育てママにとってはキツイ。

朝の保育園までの時間も、保育園帰りの公園でも、「はやくはやく」と子どもを急かしていた気がする。

リモートワークが導入されればいいのに。とママ社員は皆言っていたし、私もそう思っていた。

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           (復帰した日の帰り道)


” 地 方 移 住 ”


長男がお腹にいた時、あれは確か妊娠8ヶ月くらいだった気がする。

吐かない日が続き、体調が安定しはじめた頃、和歌山県に土地を見に来た。

太陽光設備を置く土地を和歌山で見つけよう!と、ネットで10箇所くらい見当をつけて、和歌山へむかった。

1番最初に見にきた土地が、今住んでいる場所だ。

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当時は、今にも倒れそうな半分傾いている古い平屋があって、その前にはモジャモジャな木が3本ほど。

しかし、ふと見上げると今まで見たことがないくらい美しい山がそびえ立っていた。絵画みたい。。

夫が「ここなら住んでもいいな。」と言った。

私は心の中でそれはないだろ。と思いながら

「そうだね。」と言った気がする。


その日から、夫は和歌山で子育てをしようと舵を切った。

夫はゆっくりと時間をかけて、私をその気にさせていった。

マジシャンなのかな?と思うくらい、彼は「その気」にさせることがうまい。笑

付き合う気はなかったはずなのに、気が付いたら付き合っていたし、こんなに早く結婚する気はなかったはずなのに、気が付いたら結婚していた。笑

念の為、天満橋のタワマンのモデルハウスも見に行ったけれど、狭過ぎて全然よくないねという感想を持つ。

何と比べて狭いかというと、あの壮大な山をながめた土地と比べてだ。


” 移 住 を 決 め た 日 ”


明確に「ここに住もう!」と決めた日がある。

家は建てなくても、太陽光設備を建設することは決まっていたので土地だけは購入しようと話は進めていた。

なので、おそらく20回くらいかつらぎ町を訪れた。

子どもが行く予定の保育園を見たり、小学校を見たり、中学校を見たり、最寄りのコンビニやスーパーを見たりした。

そして、気がつく。


何回来ても、ここで暮らすイメージが全く湧かない!!!!!

田舎すぎて!!!!!!!!


その瞬間、「これはいいな。よし、ここに暮らそう。」と決めたのだ。

これだけ何回も来て、ここで暮らすイメージが全く湧かないことが最高だと思ったのだ。


変化が大きい方が絶対にいい。


中途半端な場所に引っ越してもダメで、これくらい変化の大きい場所に移動した方がいいことを、直感的に分かっていた。

その頃、奇しくも会社でリモートワークを導入するぞ!という機運が高まり、プレ導入が進められ、三男を出産して復帰した頃にはリモートワークができる可能性がかなり高まっていたことも、私の背中を押した。


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