「深い河」読了感想⑵
私の神さまを信じるというのは、②の状態をつくりだす為のクッションとして神さまを設定していることになるのだろう。自分を信じるための理由や裏付けとして神さまがいる。例えば、画鋲のとれていたポスターを直したとき、神さまはそれを見ていて、いいコトをした、と自分の行動を信じる。善行であると。ではなぜ善行であると信じたい衝動が自然に生まれているのか。他人が関係するのであれば、嫌われると自分に不都合な出来事が起きかねないので、合理的なリスク回避である。では、自分ひとりの時の行動は?
そもそも自分というのはこの世に(もしかしたらあの世にも)沢山存在しているのだと私は思う。友人Aが思う私、先生Bが思う私、母が思う私、弟が思う私。私が思う私は光で、プリズムを通して七色になる。またその光が誰かの網膜を通過して、私が形づくられる。
今の時代にはカメラがある。SNSを通してレンズ越しの私やあなたに、いいねという数が付与される。これはホットな話題で、よく耳にするが、一度寄り道をしてここに私の考えを記しておきたい。
SNSは便利な文明である。時や場所を異にしても視覚的・聴覚的なデータを摂取することができる。しかし、私は美術館や博物館で直にものと対面すること、ある場所を直接訪れることで得られるものがあると思っている。それは、そのモノをそのモノが存在している空間ごと、全身で、五感で受け取ることができることに由来すると思っている。これと比較すると、SNS上に放流された写真のデジタルデータたちは特殊なものであると言える。これらはそもそも五感で感じることが出来ない。そして私が最も興味深いと思っているのは、紙媒体との違いである。紙・書物は、他人の評価がタグとしてついてくるSNS・ネット上の作品とは全く違う。あなたとわたしの対話なのだ。もちろんネット上のレビューなどは読書という一連の流れのなかに取り入れない場合である。友人や先生に進められるにしても、そこにあなたとわたしの対話が存在する。今こうして私が遠藤周作の深い河を読んで「戦友」という単語から自分自身と会話し、筆を進めているように、筆者の言葉を受け取って、読者ひとりひとりがリフレインし、応答する。
しかし、SNSにはほとんど必ず他人からの評価がタグ付けされる。それはいいねの数であったり、コメントであったり、様々であるが、投稿者本人の発した光が直接個人の網膜に届くことは稀であり、いくつかのプリズムを経て受け取ることになると言うこともできるだろう。
つづく
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