見出し画像

自然と人とをつなぐ「手仕事」を慈しむ

先日、自分が着ていたノースリーブワンピースの右肩部分を見たら、縫い目のあたりからざっくり3センチくらいの穴が空いていました。あら。
なので、さっそく手持ちのリネンの切れ端をあて、あまり目立たないようグレーのモヘア糸で縫いつけて補修しました。


これ、元々は長袖ワンピース。長袖とはいえども、薄いリネン生地かつロング丈で、更にはやや大きめなので、下に薄地のニットなどを着れば真冬でも着ることができるスグレモノでした。
逆に夏(日本では真夏は無理だけど、北欧に住んでいたときは真夏も含む)でもさらりと着られちゃうので、もう年中着ていました。

でも購入して5年ほど経ったあたりかしら、袖口から肘あたりにかけて、気がつけば穴だらけになっていた。なぜこんなことになるまで放っておいたのかは我ながら謎ですが、当時は宿業やイベントの準備・サポート、庭仕事に畑と、かなり全身を使った仕事をしていたので、そりゃそうもなるかって話ではある。

とにかく、ちょっとこれでは人前じゃ着られないし、袖が穴だらけなのは不便だということで、実家に戻ったこの年始、思い切ってノースリーブに切ったのでした。
ついでに、無地のまんまだとなんかさみしい・・と今更ながら思ったので、胸元には草木で染めたリネン糸で刺繍をしてみたり。その結果が、写真のとおり(余談ですが、この草木染リネン糸は、リンクしてある販売ページからご購入いただけます!)。


あ、もうひとつ思い出した。長袖を切る1年半前くらいかな、一度脇の下部分をダーニングしたのでした。
ダーニングって、イギリス発祥の修繕方法のひとつで、布の傷や穴を隠す形で織物のように緻密に糸を織り合わせるの。こう書くと、なんとなくレベルが高そうに聞こえますが、昔のひとたちはみんなこうやって、自分たちの服や靴下、小物、寝具まで直していたのだから、そんなに難しいわけではない。

画像1

↑ちょっとハニカム模様とかもやってみたり。


ここで念のために書いておきます。わたしはこれといって裁縫が得意なわけではない。確かに、小さなころから「手を動かすこと」は好きだったけれど、双子のイモートに比べるとかなり大雑把なので、雑巾や巾着を縫ったり、料理をしたりするたびに母から「あなたは雑ねえ」と言われてきたのでした(ひどい)。

今でこそ、自分の身の回り品のお直しや編み物を日常的にやっていますが、それも特に学校へ行ったりしたわけではなく、出会った友人知人にちょろっと教えていただいたりしたくらいで、あとは完全に独学。プロフェッショナルな技量には程遠いけれど、そこまで完璧を求めているわけでもないし、まあ、いっかと思えている感じです。


そう。昔からの暮らしの知恵として、みんなそうやって「手仕事」を加えることで、モノを長く、大切に使ってきたのです。


理由は単純に、かつては今ほど物資が豊かではなかったこと。今ほどモノに溢れている時代はない。
そして、特に女性は幼少の頃から嫁入り修行の一貫として縫い物や織り物、地域によっては編み物も当たり前に行われていて、それはつまり家族の持ち物を作ることができれば、それらを直すことも出来る、超重要な役割を担うための準備だったわけです。ラトビアとかリトアニアなんかでは、嫁入りまでにいくつミトンを編んだのかによって、その人の「妻」としての能力を表したのだとか。

古くから綿綿と受け継がれてきたこういう暮らしの営みは、産業革命による工業化という急進的な流れにさらわれていってしまうわけだけど、これだけモノに溢れている今、ひとつのモノを長く・大切に使うべき時代に立ち戻っていかなくてはならないんじゃないかな、と痛感するのです。


それとは別に、単純に自分が使うモノに手を加えたり、修繕することで愛着も湧くし、このワンピースの場合は「まるで新しいドレスを手に入れた」かのような新鮮さと喜びに出会うことができた。

例えば、同じモノを使い回すのは退屈だな、と何か新たなモノを買うことで、その時のストレスや欲求は解決できる。かもしれない。
けれど、そういう欲求って定期的に訪れるものだし、その度になにか新しいモノを手に入れていたら、身の回りはモノだらけになってしまう。それは大変だ。

でも、同じモノでも何か変化を加えたりすれば、長く楽しむことはできる。それに、長く使うことで味わいや重厚感が生まれるものもあり、新品の状態では感じることのなかった「重み」のようなものを感じることもできるようになったりね。ヴィンテージとかそういうのが多くの人に好まれる理由も、きっとここにあったりして。


そして、もし何か「新しいモノ」が必要になったとき、それを"買う"前に、もしかしたら自分でも作れるのでは?と思ってみることも大切なんじゃないかなあ、とも思うのです。

何?モノを作るだって?そんなこと、時間も技術もないしできるわけがない!と思う方も、きっといるでしょう。
もちろん、すべてを手作りしようと意気込む必要はないです。現代人の生活ではさすがにやりきれないこともあるだろうし。


でも、ここでわたしが言いたいのは「今、あなたの身の回りにあるあらゆるモノで、人間が作れないモノはない」のであって、つまりどうやってか人の手で、あるいは人が作った機械などで、モノは作られている。


その、今あなたが必要だと思ったモノ、今身に着けているモノ、今目の前にあるモノが一体”どこで”、”誰によって”、”どんな素材から”、”どのように”作られているのか?に意識を巡らせること。


そうして、モノができるその仕組みに、思いを馳せること。そう。本当に、ひとつのモノが出来るまでって、長いのだ。

そして、その仕組み自体を、色々な視点で覗いてみることも大切なんじゃないかな、と思う。



そういう意味も込めて、わたしは何か新しいモノを買う際(それは衣服だったり日用品だったり、あるいは食材だったり)、少し時間をかけられるなら以下の方法で探すようにしています。


1.衣服や身の回り品は、土に還る自然素材、植物由来のものを選ぶ。食も然りで、できるだけ余計な添加物や化学物質(+わたしはベジなので肉類、もし可能なら動物性全般)がつかわれていないものを選ぶ。

特に国内で作られているもの・オーガニックなもの(余談ですが、木綿と並んでメジャーなリネンなどの麻類は、もともとあまり農薬が必要ない素材なので、特にそういった表記がない場合が多いです)・そして生産環境やお金の回り方が出来るだけクリアーなものを選ぶように心がけています。


2.できるだけ規模が大きすぎない、ローカルなビジネスを支援する。特に手仕事品にはそれぞれのストーリーがあるので、作り手の方から直接話が聞けると、よりモノを大事に扱おうって気持ちになれます。


3.もし新品でなくてもいい場合、セカンドハンドショップや中古販売サービスを利用する。特に、自然素材じゃどうにもならない(強度がないと厳しい家電やスーツケースなど)ものや、そこまで長い期間使う予定のない場合は、モノを循環させたっていいと思う。


ざっと、こんな感じです。ここでは詳しく書かないけれど、毎回新品を買う必要はないわけだし、モノのゆくえまできちんと考えて買い物が出来たらいいよね。


そう。特にここでは身近な衣服や暮らしの道具について、これからもたびたび話していくと思うけれど、今の時代、買った(作った、譲ってもらった)モノたちを、壊れるまで使い続けることって減ってきているんじゃないかなあ、と思うのです。

けれど、かつての人々は自分たちで繊維となる植物や動物を育て、そこから恵みを頂いて糸を紡ぎ、必要なら自然の染料で染め、織ったり縫ったり編んだりしてきたのだ。そりゃあもう手間のかかることだろうし、最後まで大切にしないわけにはいかないよね。モノは自然からの恵みであり、家族や職人さんの手がかかったぬくもりがあり、命があったのだから。

そして、モノとしての命が全うされるまでも、破れたらダーニングや刺し子のような手法で修繕し、汗や汚れで染みてきたら恋色に染め直したり。それが難しくなったら、大人の衣服なら子供の衣服に作り替えられたり、糸をほどいて寝具や包みや小物になったり。

最後までモノが命を全うしたときは、土に還る。モノは微生物たちによって分解され、やがて土になる。そしてまた、新たな命を生み出す自然の一部になる。


やあ、モノの循環って、なんて美しいのだろうね。そんな循環の一部になれるのが「手仕事」だと思うし、わたしたちの暮らす地球に少しでも寄り添う形のひとつでもあると思うのです。


画像2

↑購入時は水色だったけれど、あまり着ない色だったので、ちょうどよく集まったアカメガシワと栗で染めた。今はめっちゃ着ている。


自分が自然の一部である、ということを強く意識させてくれるのが「手仕事」の魅力でもあると思っています。


もちろん、自分ひとりですべてをやるのには限界があります。そんなときは、家族や友人を誘って一緒にやってみたり、面白そうなイベントやワークショップに参加するのもいいかも。

もしくは、自分の住んでいる地域や身近な人で手仕事をやっている方がいらっしゃったら、ぜひ支援の気持ちも込めて買い物をするのも手。


手仕事は、わたしたちの暮らしをより豊かにしてくれ、人と自然とつなぐツールでもあるのだから。

身近なことから、始めてみませんか。

もしわたしの言葉や想いに共感していただける方がいれば、サポートをして下さるとうれしいです。 ひとりでも多くの方へ「暮らし」の魅カを伝えるための執筆・創作活動に使わせていただきます。