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【三国志の話】三国志で見るリスキリング

はじめに

 岸田首相が発言してから注目されているリスキリングとは、『新しいことを学んで、新しいスキルを身につけ実践して、そして新しい業務や職業に就くこと』なのだそうです。

 三国志を題材にして、目指すべきリスキリングのモデルとなる人物が数名見つかりましたので、ご紹介したいと思います。

徐庶じょしょ

 もとは名を福(ふく)といった。字は元直、潁川の人。
 義侠心から知人の敵を討って刑吏に捕えられるが、仲間に救出されて逃亡。以来、名を庶と改め、武芸を棄てて、学問に励んだ。
 
河南で戦いがはじまると荊州に難を避け、そこで諸葛亮と親交を結び、のち荊州で「髀肉の嘆」をかこっていた劉備の幕僚となり、諸葛亮を強力に推薦した。
 劉備が長阪で惨敗を喫したとき、母親を人質に取られたため、涙をのんで劉備に別れを告げ、曹操に投降した。
 魏では右中郎将、御史中丞などを歴任、明帝(曹叡)のとき死んだ。

 『三国志全人名事典』 徳間書店

 『三国志演義』でもおなじみの人物。
 若いころは武闘派でしたが、そこから諸葛亮しょかつりょうの友人になるくらいに学問が上達したのは驚きです。

 関羽かんうにも、若いころに人を殺して放浪したという伝説があります。正史でも劉備りゅうびに出逢ったきっかけは幽州涿郡に亡命したからと記録されています。

 関羽、字は雲長、もとの字は長生、河東解の人なり。亡命して涿郡にはし。先主(=劉備)、郷里に於いて徒衆を合せ、しかして羽、張飛とこれがために禦侮ぎょぶす(=敵に侮られないように防禦を固める)。

『蜀書』関羽伝

 劉備というベンチャー社長のもとでは、前歴よりも能力がものを言ったようですね。

唐彬とうひん 235-294

 若いときは腕力に頼ったが、晩年は経史を研究し、とくに『易経』に明るかった。
 晋の武帝(司馬炎)のとき、王濬とともに呉を討伐し、右将軍となり、上庸侯に封ぜられた。雍州刺史まで進んだ。

『三国志全人名事典』 徳間書店

 『三国志演義』では、最終話の、呉が滅亡するときにのみ登場します。こちらは大器晩成というイメージです。

孟康もうこう

 字は公休、安平国の人。
 魏の文帝(曹丕)の郭皇后の縁続きで任官されたため軽んじられたが、猛勉強をして見直された。
 弘農太守として善政を布き、累進して中書監となった。

『三国志全人名事典』 徳間書店

 つまり、コネで採用されたものの、入社後に猛勉強したということですね。
 現代でも、学歴でフィルタリングをしたら彼のような人材を逃します。
 こういう人材のポテンシャルを見抜いて採用・育成することが、人事部の本分だと思います。

呂蒙りょもう 178-219

 字は子明、汝南郡富陂の人。呉の孫策・孫権に仕えた将軍。十五、六のころから従軍し、戦功を重ねて盧江太守、左護軍・虎威将軍などを歴任、程普らとともに呉軍の重鎮となった。
 あるとき孫権に学問の必要を説かれて発奮、老儒者も及ばぬほどの学識を持つにいたり、「また呉下の阿蒙にあらず」と先輩将軍の魯粛を感嘆させた。
 荊州をめぐる関羽との対決では、若い陸遜を正面に立てて相手を油断させ、その隙に後方を急襲し、関羽を孤立無援の状態に追い込んで討ち取った。
 その功で南郡太守に任ぜられ、孱陵(さんりょう)侯に封ぜられたが、まもなく病死した。

『三国志全人名事典』 徳間書店 

 『三国志演義』でも有名なエピソードの持ち主です。
 魯粛ろしゅくに「非復呉下阿蒙(呉下の阿蒙にあらず)」と言われて、呂蒙が「士別三日、即更刮目相待(士別れて三日すれば、即ち更に刮目して相待つべし)」と答えたという話は、正史の注である『江表伝』にあるものです。
 三日もあれば目を見張るほど変われるのだ、という強烈な自負ですね。

まとめ

 はじめの三人は自ら意識して学問に精進したので、正確にはリカレント教育に分類されると思います。
 呂蒙の場合は「孫権に言われて」ということなので、本来の意味でのリスキリングだと言えそうです。

社会人になった後も教育機関や社会人向け講座に戻り、学び直す。これがリカレント教育で本人主導とされている。

リスキリングは会社が主導。技術革新やビジネスモデルの変化に対応するために新しいスキルを学ぶことを意味する。

日経産業新聞「リカレントとリスキリング」

貴重なお時間を使ってお読みいただき、ありがとうございました。有意義な時間と感じて頂けたら嬉しいです。また別の記事を用意してお待ちしたいと思います。