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ある陸上競技選手の足跡:2002-2006:社会人:引退まで

とうとう現役生活の終盤に差し掛かりました。社会人になってから苦しみました。マラソンを走りたかったのですが、チームの駅伝もあるし、生来の負けず嫌いもあって目的や目標が定まらなかったんですよね。

箱根駅伝で燃え尽きたわけでもなく、何も引っ張ってなかったけど、全然目立たないのは面白くないし、どうにか「早く」日本のトップクラスに躍り出て勝負したい!!

と焦っていました。

せっかく出場権があった日本選手権も欠場。何度か今までにない故障を抱え四苦八苦していました。未だにあの状態は謎です。なんでああなったんだろうか・・・


3年間、日清食品で競技を行い、成績が出ずに一度は引退する方向でいました。が、JGSにお世話になることとなり更に1年現役を続けました。

結局、毎回東日本実業団駅伝も全日本も控えやかすりもしないで出られず。という感じで、一番の思い出は国際千葉駅伝の千葉代表で走ったことになりました。実は千葉県選手権で1万mと5000m二冠しているんですよね。

ただ選手としてチーム内競争に必死になり、目指していたマラソンからは遠ざかる一方でした。全然思うように走れなかったんですよね。

指導者になってから考えると、落ち着いて1つの目的と目標に向かってきちっとした身体作りとトレーニングを詰めておらず、目標立てが先で、それに向かって「最短距離」ばかりを進んでいたんですよね。

だから力が付ききれておらず、目先の練習、タイムだけが指標になっていたんですよね。なぜ気付かなかったのか?やはり競技選手としてセミプロのような形でやっていたので余裕がなかったんですよね。

若い学生さんは「若い」とは言え伸び盛りの時期は過ぎていたりします。だからこそ目先の結果より4年間でどこまで行けるかを一番に考えてしっかりと心身作りとトレーニングを積んで欲しい。そういう願いで指導者になりました。

社会人になるともっとでしょうね。


上下しましたが、そういう想いを日々抱いていたので、指導者の話が掛かった時は迷いました。一応チーム残留も可能だったのですが、引退し、お話を引き受けました。

ここで競技選手としてのお話はお終い。総集的にいくなら「セカンドキャリア」としての指導者編~現在をさくっと後日に記す感じです。


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