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あなたの役割は必ずある

妻への愛、我が子への愛。当然あります。愛があるが故に、幸せでいてほしい。そう願っています。

幸せでいるということは、不幸せを避けるということ。

何をもって幸せかどうかは人それぞれですが、苦しんでいるのは不幸せと感じてしまいます。

しかし、成長しようと思った場合、苦しむことは短期的にはあると思います。苦しむっていうとなんか変な感じなので、ストレスと表現することにします。

過剰なストレスはだめですが、適度なストレスは成長を促します。これに関しては、ご納得いただけると思います。

では適度かどうかはどう見極めるか。自分ならまだ分かりそうな気はしなくもないです。

ただ他人に対するストレスが適度かどうかってどう判断すればいいのだろう。

愛する相手のストレスが適度かどうか。これを見極めることが難しいなぁ。そんなことをよく考えます。

どうも、哲学的に考える癖のある、にとうです。よろしくお願いします。

注射

我が子は二人ともアレルギーをもっています。アレルギーの結果を知るためには、注射をする必要があります。そう、あの細長い金属で自分の腕にブスリと刺し、血管の中から血をつーっと抜き取るあの悪魔の時間です。

この文の表現からおわかりの通り、私は注射が苦手です。血液検査で倒れたこともあります。主任の先生に車椅子を押してもらい、保健室のベッドで休むということをしました笑。いやー申し訳なかった。

まあそれはおいといて、、、予防注射するとき我が子たちだけ奥のなんか部屋に連れて行かれるわけです。そう、親である私は同席しないのです。たぶん側にいたら私は耐えられないでしょう。その注射の必要性は分かっています。が、そんな論理ではないのが感情です。

子どもたちが苦しむ姿を見たくないのです。何度も言います。必要性は分かっています。だけど、痛がる姿は見たくないのです。

ここで、お医者さんの出番です。知識、資格があるのはもちろんですが、なにより患者との距離が近すぎないことは大きな助けとなります。感情が邪魔をすることなく、冷静に注射をすることができます。

患者との距離が近く、愛情をもちすぎると、短期的な苦しさに心が動かされ、冷静に処置ができない気がするのです。実際、お医者さんでも身内の手術は冷静な判断ができないってドラマで言っていた気がします(情報が薄い笑)。

だから、いろんな役割の関わりがあっていいと思うのです。

優しさ(甘さ)多めで厳しさ(成長)少なめ。優しさ普通、厳しさ普通。優しさ少なめ、厳しさ普通。

優しさと厳しさはトレードオフ関係ではないという主張もあるでしょうが、イメージの話です。そこそこは関連性があるとは思います。

さらに、一人の人が優しくしたり厳しくしたりすることもできるかもしれませんが、人にはそれぞれ価値観があり、その価値観は時に強く出てしまうかと思うのです。

とかく言いたいことは、全員が愛情深く関わらなくてもいいですし、全員が将来を見据えなくてもいいし、むしろ深く関わらない方がいいときもあるし、将来を見据えない方がよいときもある

何が絶対的に正しいがないからこそ、全員正しくて全員違う。そう思えばこそ、みんな違ってみんないいと本当に思うのです。

役割分担

私は学校内の居場所づくり支援員をしています。ここに通うのは様々な理由で、教室に入ることが難しい生徒たちです。

生徒からすると、親がいて、担任がいて、教科担当がいて、進路担当がいます。ただ日頃一番関わるのは支援員の私です。その子との信頼関係も一番構築している(という自信)ので、他の先生から「もっと頑張るように言って」「どうするかはっきりするよう言って」と、言われることがあります。

お気持ちは分かります。

すごく。

私も今の仕事をしていなかったらそう言っていたかも知れません。

自分が言っても聞かないから、一番話が通りそうな人にお願いする。

至極自然のように感じます。

しかし、今はそのお願いに違和感を感じるのです。

それは役割が違うなと思うのです。

もちろん私も頑張るように促すときあります。しかし、それはそれまでにたくさん甘えを許したから言えるのです。その甘えを許したから学校に来れて、他の先生たちとも関われるようになったのです。

支援員の私は、甘えとしての役割です。

一方、担任の先生は成長としての役割です。事実、多少厳しいことを言っても生徒は反発せず受け入れるのです。頑張るのです。

一方、私が成長を促す言葉を言おうもんなら「えー」とか「めんどくさい」とか「無理-」とか言われてちゃうんです。でも、担任の先生が言うと頑張っちゃうんです。

そして、頑張った後、私に愚痴るのです。でも愚痴を言うことで、また次回の担任の先生の促しも「まぁ、しょうがないか」という気になるのです。

そうやってなんとかかんとか過ごすんですよ。

甘やかしている人は、他の厳しい人のためにもなるが、他の厳しい人に救われてもいる。

厳しい人は、他の甘やかす人のためにもなるが、他の甘やかす人に救われている。

そうやって考えると、みな、みんなのためになっているし、みんなに救われているのです。だからやっぱり、みんな違ってみんないいんです。

もっというと、あえて違うようにした方がいいとさえ思います。

例えば、夫婦の価値観。よく価値観のすれ違いで離婚するニュースが流れますが、教育という点では価値観が違う方が良いと思うのです(夫婦生活はもしかしたら長続きしにくいのかもしれませんが)。

「行けるところまでは学校に向かおう!」と促す人がいたり、「まぁたまには休めばいいんじゃない?」と促す人がいたり、「とりあえずご飯食べようぜ」って話題をそらす人がいたり、「自分の好きな道を進む方がいいじゃん!」ってむしろ背中を押す人がいたり。

いろんな人が居た方がいいと思うのです。

だから、親だけでなく、担任、学年主任、役所の人、児童相談所の人、NPOの人、といろんな関わりが世間には用意されている気がします。

過干渉の親が良くないと言われるのは、何も甘やかすからではありません。1人の人が1人に影響を与えすぎるからまずいのです。関わる人が少ないことが偏った価値観を植え付けてしまうのがまずいのです。

それぞれにはそれぞれの役割があります。どれかだけでも上手くいかない気がします。だから自分がいいと思う価値観を大切に関わりながら、他の方と関わっていく。

どんなあなたでも役割は必ずあります。できることがあります。ただあなただけではダメです。

いろんな人と関わらせる。

ちょっと意識してみてはいかがでしょうか。

最後までお読みいただきありがとうございました。何かの参考になれば幸いです。素敵な一日をお過ごしください。

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