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英語を使ってガイドすること、地域で新しい仕事を作る事 #1

まず「わたし」が何者であるか?を触れてから書き始めた方が良いだろうと思い、「自己紹介」から始めようと思います。

今、英語を使って「サイクリングガイド」と「スキーインストラクター」を「地域の皆さんとコンシェルジュ」を加味して、百名山の1つである「羊蹄山」の麓のニセコエリアをベースに観光のお仕事をさせて頂いています。

それと合わせて10年程前からインバウンド(外国人観光)やサイクルツーリズムの事業デザインをさせて頂いています。今までの海外の顧客、事業者とのやり取りで得た知見やコネクションを活かし、新しい0から組み立てるプロジェクトで、時間がかかりますが、とてもやりがいのある仕事です。

自己紹介していると、変わった仕事をしている人だな〜と思われます。どうやって生活しているんだろうとか、会社の経営とか大丈夫なんだろうかとか、仕事として成り立つのとか。でも、楽しく、誰もやったことのない自分だけの仕事がいつの間にかできるようになっていました。

少数派イラスト

このような仕事を20年位前からイメージできるようになったのは、北海道倶知安町(くっちゃん)にて脱サラして、移住して、北海道のライフスタイルであるスキー、カヌー、リバーフィッシング、トレッキング等のガイド事業のお仕事をしてからのことでした。

観光ガイドの現場は先輩ガイドやマネジメントスタッフによる事業者としての仕組み(マネジメント)に初めて触れる機会でした。また、お客様をおもてなしするガイドとしての仕事について学ばせて頂きました。そこから北海道出身で北海道ライフスタイルが備わっていることの強みをガイドツアーのお客様から評価して頂き、仕事に対する「迷い」が「自信→確信」に変化しました。

思い返すと、私の人生観に対する起源は自分が8歳だった時に母に連れて行ってもらった「ワールドカップスキー富良野大会」の気がします。そこで2つの強烈な「将来のイメージ」を得る機会を頂きました。その体験が後の自分のぶれない人生観と職業観に繋がるとは思っていませんでした。

自分にはスキーレースの迫力より、海外の国々の国旗がたなびいている様子と母親が英語を使って海外から来た応援している皆さんと交流している様子が強烈な驚きと憧れとして残りました。40数年経過した今でもはっきりと覚えています。東京オリンピックがたくさんの子供達をインスパイアしたら良いと思っています。

1977FISWC富良野

ニセコエリアではオーストラリア人が事業者として、夏のラフティング事業や冬のスキーツアーを販売する旅行会社、コンドミニアムマネジメント会社、不動産会社、コンドミニアム建築プのロジェクトマネジメント等の事業が次々立ち上がりました。後に「ニセコバブル」、「Niseko Powder Distination」という言葉で日本、世界にその名が広がりました。そのきっかけとなった「スキープロモーション」をNISEKOブランド事業として、15年前に行った経験が今のガイド事業と地域プロデュース事業にものすごく活きています。

「英語」を使って仕事をしたい!8歳の時に思った夢を実現することができました。その後、中学生の時に描いた「海外での仕事を経験し、北海道を舞台に活躍する」というイメージを実現することもできました。

「地方のライフスタイル」を発信する仕事として今は全国にお邪魔し、地方が発信するライフスタイル発信のお手伝いとして、新しい事業を担当される方、地域の皆さんに自信と次のビジョンを持って頂く役割を担わせて頂いています。最初は皆さん「不安」ですから。

地域事業プロデュースとして、観光だけではなく、まちづくりや人づくりといった地域の悩み事を伺う機会が多くなりましたが、今私自身が重要視している「地域の事業承継」という大きなプロジェクトを遂行するためにやることとして、今までの経験、知見を活かそうと奔走しています。

新型コロナウイルス(Copid-19)で地方や都市は大変な打撃を受けました。今後の復興支援としても知見を活かし、また世界のネットワークを活用して地域が元気になるプロジェクトを応援しています。

このようなお仕事をさせて頂いています。今後noteにこのような変わった独自の仕事の仕方をしている私が、自分の事業を承継できるのか?ここは今後の目標なのですが、ここだけで持論展開をしていきたいと思います。舞台は日本全国、世界へとライフスタイルを通じて広がっていきます。


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