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What is e-sports? #1(全4回) 【哲学的研究】近代アメリカスポーツについて考えてみる【全文公開】

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導入

現在ジェイラボ部活動『表現研』のワークショップにて、e-sportsについて考察を深めようとしているところである。その前置きとして、近代の特にアメリカで誕生したスポーツについて少し考察しておきたい。e-sportsというほぼ人工のリソースだけでできあがっている競技を考えるにおいて、自然なるものと人工なるもののつなぎ目として極めて「人工的にデザインされた」近代アメリカのスポーツは、特に有効な参考事例になるだろうということである。古代のスポーツの起源からe-sportsまでは、おそらく地続きではない。その橋渡しとして近代アメリカのスポーツについて知っておきたいと考えるのは、僕としては極めて自然な感情ではある。

近代アメリカで生まれたスポーツとして特に重要なのは、ベースボール、アメリカンフットボール、バスケットボールであろう。アイスホッケーは北米4大プロスポーツリーグを担う一角であるが、カナダが発祥なので省こう。その他、例えばバレーボールもアメリカ生まれではあるが巨大な市場を持つメジャースポーツにまで至っていないので、これも省くことにする。

成立した年代を見ると、ベースボールのナショナルリーグ創立は1876年、アメリカンフットボールの初の試合が行なわれたのは1869年、バスケットボールが考案されたのは1891年である。南北戦争の終結が1865年。南北戦争という時代の空気感が無関係であったとは思えない。合衆国において資本主義が急速に発展をとげたGilded Age(金ぴか時代・金メッキ時代)、すなわち、拝金主義が横行し自由放任主義経済の暴走が認められた時代のことである。この時代にアメリカ合衆国で生まれたスポーツ競技には、時代背景として以下の大きな特徴があると予測される。

公正な競争(の阻害に対する罰則や監視体制の強化)
開かれた市場(への自由なアクセス)
格差の是正

ベースボールの場合

ベースボールの原型であるクリケットという競技は、空間的にも広大な芝生が必要とされる上に、時間的にも終了まで数日を要したりするため、全くもって庶民的ではない。完全に有閑階級の貴族のためのものという雰囲気があった。

そこで登場したのがベースボールである。ベースボールの特徴は前近代性と近代性の融合にあると思われる。

ベースボールの前近代性とは何か。

他のチームスポーツと比較すれば顕著であるが、野球は打者と投手の「一騎打ち」で成り立っている。チームスポーツでありながら、純粋なチームスポーツではない。一騎打ちの積み重ねこそが、ベースボールという奇妙なチームスポーツの本質である。この一騎打ちの感覚というのはまさしく南北戦争における合戦、すなわち至近距離で互いを仕留め合う前近代戦の感覚であろう。近代戦になれば、大量破壊兵器その他爆弾を用いた爆撃など、効率重視で数字とにらめっこすることが主な仕事になる。

もう一つ、前近代性を指摘するなら、「人間至上主義」というのも挙げられるだろう。たとえば、「ストライクゾーン」というものに、少なくとも素人が納得するような明確な基準はない。ストライクとは、投手、捕手、打者の相対する空気感を感じ取りながら球審が勘と経験で下すものである。デジタルではない。つまり、ストライクゾーンに互換性や再現性の保証はなく、ストライクはいわば毎回が一回性の奇跡である。ベースボールの持つ、この互換性や再現性、規則性への執着心の低さは、明らかに他の二競技とは異なる。

さらに「人間至上主義」について具体的に考える題材として、もう一つ、ホームランを挙げておく。ホームランとは、様々な面倒なルールを全て無視して個の力で一気に塗りつぶす手段である。ホームランは緻密に練られたルールブックという「非人道的な近代性」を一気に無価値にする。もしかすると、前近代的というよりは「反」近代的と言ったほうが良いのかもしれない。さらに、ホームランは全ての事前計画を破壊する超法規的な存在であるにも関わらず、打った後にベースランニングという身体的要請は免除されないという奇妙な矛盾も抱えている。ルールの統一性を考えればもちろんベースランニングはすべきなのだろうが、全てを破壊した上で、敢えてデモンストレーション的に得点するまでの道のりを全て省略なしに実施しなければならないというのも、極めて「人間主義的」である。

その一方で、ベースボールには明確な近代性がある。

それはもちろん、「データ」である。先に挙げたような一回性、個としての人間性を重視していながら、同時に様々な数字、特に打率や防御率などの「確率」を重視しているところが重要であろう。近代産業社会における「予測可能性」という基本思想と見事に合致している。

ベースボールはまさしく近代化が進行する中でこそ生まれ得たスポーツ競技なのだろう。

アメリカンフットボールの場合

では、アメリカンフットボール(以下アメフトと略記)はどうだろうか。アメフトの原型は、当然まず第一にラグビーが思い浮かぶだろうが、フットボールという言葉で括るなら、サッカーにもつながりが認められる。

アメフトの本質は、一言で言うなら、「環境の支配」もしくは「コントロール」である。これは、ベースボールにおいて導入されたデータの概念がそのまま肥大化して個を塗りつぶしたと考えれば良い。

プリンストン大学とラトガーズ大学の間で行なわれたとされている史上初のアメフトの試合は、実はサッカー的なものであったらしい。その後、ハーバード大学がラグビーの要素を取り入れたフットボールを考案し、その「ハーバード式」が次第に広まり今日に至っているわけだが、そのルールの整備には、政治介入まで含めた物語が存在する。

1900年辺りにハーバード式ルールで行なわれていたアメフトの試合での死者は、年間40人以上にも達したらしい。そこでセオドア・ルーズヴェルト大統領が介入してルールの改正を迫った。その際に組織されたルール改正を検討する組織が後にNCAAへと繋がっていくわけだが、しかし、そもそもなぜ大統領が介入するほどの重大事と感じたのか。

Gilded Age(金ぴか時代)である。

アメフトのルール改正への介入は、独占禁止法の精神の延長線であったのではないか。アメフトという競技はその成立過程において、資本主義の暴走とよく似た様相を呈していたのであろう。そうした「抜け道」を最大化するような思想を徹底して取り締まること、それが時代の空気感であり、それがアメフトのルールの異常なまでの反則へのこだわりに現れている。

ルーズヴェルト大統領介入後になされたルール改正における最大のもの。

前方へのパスの解禁

これが極めて重大である。前方へのパスを認めることで、過度なフィジカルコンタクトを避けて効率的かつ計画的に得点を競うことができるようになった。

そもそも前方にパスができないラグビーやオフサイドという待ち伏せを取り締まるサッカーというのは、すぐに決着をつけたくないという「祝祭的」思想に基づいている。それは前近代というより「中世」的である。当然、金メッキでぴかぴかのアメリカの空気とマッチするはずがない。前に進む競技なのだから、さっさと前に投げてしまえば良い。そのアイデアが許容されるのは時間の問題だっただろう。そして、もう一つ、「不正を取り締まる」という意識が強かった時代の空気の中で、ルールの未熟さから死者を多数出すような粗暴性なども、決して認めることはできなかったのだろう。それらの融合の結果。

徹底して不正を排除し、予測可能性を高め、すなわち偶発性を排除し、得点は計画性のもとにこそ生まれるを良しとする。

こうしてアメフトのルールは成立している。これは何か。

マーケティングである。

全てがセットプレイというデザインプレイで成り立っているこの競技は、資本主義下の企業活動と極めて類似性が高い。アメフトは、それ自体の本質が商業主義なのである。ベースボールよりアメフトの方が市場規模は大きいのだが、馴染みのない日本人にはいまいちピンとこない。「野球の方が一般受け良いんじゃね?」と思ってしまう。僕もそうだった。しかし、それこそがアメフトの本質であり、何一つ驚くことではないのである。

バスケットボールの場合

ベースボールは前近代と近代の架け橋であり、人間主義的である。アメフトは近代化の申し子であり、マーケティングそのものである。では、バスケットボールはどのような文脈で生まれただろう。

宗教である。

バスケットボールそのものが宗教的であるということではない。南北戦争以後、凄まじい工業化が起きたアメリカにおいてその基礎となった近代的科学的思想をどう評価するかというのは、神学において重要なテーマであった。より過激で科学と真っ向から対立する原理主義のイメージを払拭しながら、今日福音派と呼ばれる一つの派閥が形成されてゆく。現代においては、積極的に政治活動をするようになった福音派の一部を「宗教右派」と呼んだり、「原理主義者」とも呼んだりしたので混乱も生じたと思われるが、いまはその話は置いておこう。福音を届けることで現世救済を志向するような「宗教的態度」が、この時代と向き合った時にどういう行動を取ったかである。

より世俗的な立場で社会と向き合うことで存在意義を示そうとしたという側面はあろうと思われる。そこで一役買ったのがYMCA / Young Men's Christian Association(キリスト教青年会)である。

YMCAが提供した体育(身体教育)、それがバスケットボールである。

体育という意味では、アメフトも同様であったが、思想が全く異なる。アメフトは大学で生まれて高校へ派生していった、いわば白人エリートの色彩を強く帯びていた。しかし、バスケットボールは、そもそも宗教界が心身の健康増進という目的を掲げて打ち出した競技であり、参加ハードルの低さから都市部の移民や黒人などにも広がっていった。

競技の特徴としては、運動不足になりがちな冬場に屋内で楽しめる球技をというコンセプトがあったため、狭い範囲でボールを投げ合うことをベースに考えられた。その中で特に重視されたことは運動効果である。

反則の設定により粗暴性を回避した。
アメフトのようなプレイをいちいち止めてまで行なわれる徹底した計画性よりもスピーディーな展開とゴールの量産をイメージした。

いずれも、運動効果を重視してのことである。ちなみに、バスケットボールと同時期に考案されたバレーボールであるが、こちらはマイナースポーツとしての立場に甘んじている。理由はバスケットボールほどの得点の量産への割り切りがなかったからではないかと思われるが、その考察は本論の目的ではないので置いておこう。

アメリカスポーツと差別

ここまで、ベースボール、アメフト、バスケットボールの出自、成立について見てきたわけだが、アメリカのスポーツを考えるにおいては、もう一つ重要な要素がある。

差別、特に黒人差別である。

上記のアメリカスポーツは、黒人差別を直接打開するきっかけになったのだろうか。おそらくなっていない。唯一、バスケットボールだけはその出自から、黒人に対しても比較的開かれていた側面はある。

かつてアメリカにはジムクロウ法なんて法律があったくらい、黒人差別は公然の事実であった。「分離はするが平等である」という理屈で、明確に空間的に隔離するという陰湿さが合法化されていた。そんな中で「たかが」スポーツに何ができるというのだろう。

しかし、スポーツがひとつのきっかけを作ったのも事実。

オリンピックである。

つまり、国の威信、それだけでなく、特にベルリンオリンピックではナチスの人種主義を打ち砕くという大義において、アメリカは黒人選手の能力に頼らざるを得ない状況に直面した。その後も共産圏とのメダル争いのため、黒人選手の能力は求められ続けた。そもそも、アメリカ合衆国は建国の理念からして人種差別には反対すべき立場ではあったはずだが、内部的に改革が進むことはなく、国際化された競技の中で初めて黒人の能力を認めるという流れが生まれたわけである。

ちなみに、もう一つの差別として女性差別も挙げることはできるだろう。たとえば、チアリーディングというのは第二次大戦時若い男性が徴兵され結婚適齢期の男女比に生まれたアンバランスから、女性が男性の気を引くための一つの舞台として機能していたようである。そもそも女性に許された運動競技自体がほとんどなかったというのも、アメリカでチアリーディングが盛んな理由にはなるだろう。しかし、チアリーディングは明確に男性の競技(アメフト)のおまけとして制度化されたものであり、この文化はアメリカにおける女性スポーツの発展の遅さを示しているとも言える。実際、アメフトを競技として女性に開放しようとするとランジェリーフットボールといった類のものになってしまう。

まとめ

今回の論はあくまで「アメリカ」をキーワードとしているので、ここまでで止めておく。

ベースボール、アメフト、バスケットボールが、実は全く異なる思想、出自を持つということについて理解しておくことは、今後スポーツについて考えるための一つの基準、助けになるはずである。

そして、社会的な側面として、たとえば差別のような問題に対してスポーツがそれ単体でどの程度有効であるかということも考えたいところである。アメリカの歴史においては、残念ながら、それ自体ではほぼ役に立たなかったという解釈もできるのではないか。国の威信という言わば「エゴ」が結果的にスポーツにおける差別を廃止するきっかけになったというのは、皮肉であるかもしれない。もちろん、そうした様々なきっかけという小さな種火を大きな運動として燃やした黒人解放の運動家達の物語というのはスポーツという文脈を超えて存在するが、それはまた別のお話。

文中の年代などについては以下を参考にした。


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