ワークショップ「所長所感」 - 第18回[20200803-0809]『読書について』
ショウペンハウエルの『読書について』は、読書論としてはド定番の古典ですね。僕も中学生時代から何回か読み直してます。
多少の含意を捨ててバッサリ言い切りますと、「具体に過ぎた情報に本質はない」ということです。もうちょっとだけ丁寧に言いますと、「構造そのものではなく構造化する行為に本質が立ち現れる」ということでしょうか。いま適当に言語化しました笑 もっと言いますと、「知性とは静的なものではなく動的なものである」ということですね。その辺が本質です。
さて、何事も初手はものまね(ほぼ猿真似と言って良い)から入るものです。僕だってそうでした。中学生の僕は『読書について』なんてものを読んで、いっちょまえに読書についてわかった気になって、受け売りをしまくってたと思います。それがスタートラインなのは、僕は全然構わないというか、スタートはそれしかないと思います。
読書は、他人にものを考えてもらうことである。
ショウペンハウエル氏は、全体的に見ると読書にあまり良いイメージを持っていません。それは、多くの人がそこで止まっているからです。
ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実状である。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちに本に向かうという生活を続けて行けば、精神は不具廃疾(翻訳原文まま)となるからである。
僕も、基本的に全く同じ意見ではあります。皆さんにとって、読書は「ネタ探し」なのではないでしょうか。たとえば、皆さんが読んでよかったなぁと思う本は大体以下の特徴を持っていると思います。
・ぼんやり感じていたもやもやがそこに言語化され構造化されていた
・考えたことすらなかった斬新な視点を発見できた
・あ、これ次(の会議、発表、論文…で)使えそう
本を読んで何らかの感動や発見があるとは、皆さんにとってはそういうことだと思うんですが、どうでしょうか。僕もそういう経験を地獄のように繰り返してきました。ただ、その結果、いまとなってはもうそういう経験は久しくしておりません。何故かと言いますと、既に頭の中には自分のこれまでの思考で構築された概念構造の基礎がありますので、確立した構造の基礎をひっくり返すとなると相当な深さとボリューム(労力)が必要になり、そんな希少なものと出会う確率がかなり低くなったからです。どんな高尚に見える概念も根っこは皆、僕が自分で確立した基礎構造に収まるか、ハナから「論外」だったりしますので、読書の目的は結果的に「確認」ないし「さらなる明確化」であって「発見」であることはなくなりました。もし自分の基礎を根底からひっくり返すようなものをいまさら「発見」してしまうようなことがあったら、僕はそれを消化するまで一定期間廃人になると思います笑 それくらいの覚悟で本を読んでいます。
なので、僕にとって読書とは、ほとんどの場合新たな知見を得るという以上の意味は持ちません。その中でも、特に本当にただ知識を得るためだけという目的で本を読むこともよくあります。そうした、思考以外の目的の読書は、厳密には僕は読書とカウントしておりません。それは単なる資料の参照です。ビジネス書の類は全部そうですし、引用という浅はかな目的だけで古典を漁る時もそうです。
なので、ショウペンハウエルの翁がおっしゃっていることにはまったく同意はするのですが、だからと言って、それをそっくりそのまま今の時代の大多数の人々に当てはめて断罪しようとは、僕は思いません。いまや、本を読むどころの騒ぎではないわけです。「『読書について』について語った動画」という「乗り物」にただ乗っかるだけというのが、最も「一般化」された知的フォーマットであり、そうした「思考」の消費、いや商品化は止めることは不可能です。
動画フォーマットは受け手が消費する時間まで制御するので、本よりもはるかに大衆のコントロールも容易でしょうし、自分でものを考えるよりも前にネイティブにその世界に浸かってしまったような人間が、その後の人生で、ほんの軽いきっかけで自分でものを考えられるようになるとは考えにくいです。なので、これは本当に、権力が上から止めない限り止まらないと思います(権力こそが大衆管理を進めている主体そのものなので止まるはずはありませんね)
ショウペンハウエルという偏屈なおっさんが、一生懸命毒を吐き警鐘をならしているこの一連の文章も、既に絶望的にその意図が届く人と届かない人に、わかれつつあると思います。
いまの世の中においては、一般大衆である我々は一般大衆として飼いならされていた方が絶対的に生きやすいです。「『読書について』をガチで著す」ことを目指したがるようなタイプの偏屈なおっさん(僕みたいな融通の利かない人間)は、アカデミックなポストでも見つけてしがみつかない限り、在野では大衆管理のフォーマットに乗れないので、とても生きにくいです。「『読書について』の他人の解説書なんかを孫引きの孫引きして我が物顔で動画にする」という「借り物地獄」を平気でできるような体質の人間こそが、時代のフォーマットに適しているわけですね。読書(いまとなっては動画と比してかなり積極的知性が求められるとされている尊い行ない)ですら、本人の意識次第では「他人の思考に乗っかっているだけになる」と指摘するショウペンハウエル氏が、いまのこの状況を見たら絶句するでしょうね。
しかし、人類はもうその方向へ舵を取っているのです。本当にいまもなお「知識人」なんていう化石が存在するなら、やるべきことは「読書論」を守ることではなく、もはや「読書論」を守ることすらできなくなった人類の行く末について考えることです。
人類は、自然言語で書かれた古典を捨て、人工言語で未来を綴ることを選んだのですから。古典にどれほど人間の本質が詰まっていようと、それらはもはや引用元のデータ以上の価値は持たないのです。
さようなら、ショウペンハウエル。
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