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「正しさ」とは何のことか【全文公開】


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「これは正しいのか」ということはそこかしこでよく議論されるが、そもそも「それが正しいとはどういうことか」ということを意識している人など、世の中にはほとんどいない。

「一般的な意味での正しい」とは、「その文脈で一般的に共有されている前提と論理的に矛盾がない」という意味である。ここで考えるべきことは、「一般的」と「前提」と「論理的に矛盾がない」とはどういうことかということである。

「一般的」とは現代における多数派に属するということであり、「前提」とは疑い得ないと感じられる何かのことであり、「論理的に矛盾がない」とは言語的な思考において前提と両立するということである。

何を言っているか伝わっているだろうか。

前提が疑い得ないのは何故か。言語的な思考というのは、それ自体が正しさ(という言語枠組み)における自作自演ではないのか。さらに、そこに少数多数が生まれるということは、それは絶対のものではないだろう。そういうことである。

まだ通じていないかもしれない。

一応具体例を考えておく。数学が正しいのは何故か。これは数学の学術的専門知識がある人なのか日常の実務でしか数学に触れない人なのかで印象は異なるだろう。少しでも数学をかじったことのある人ならば、数学的な議論においてここで言う前提なるものは全て定義にまでさかのぼることができるだろうが、そうでない人にとっては前提とは数学の専門家が自分とは無関係の外部(権威)で保証してくれたもののことであり、さらにはそこからすら離れた義務教育的な経験に基づいた直感的な何かであったりする。ただ、そのいずれにおいても、究極にさかのぼったときに、それ以上「疑ってはいけない」領域に必ずぶち当たる。つまり、

「正しい」ということは「疑ってはいけない」ということと同値

である。通じようが通じまいが誰が何と言おうが、これは「こうでしかあり得ない」言語的真理であり、これは一般的正しさの概念とは無関係であることは言っておく。

話を戻そう。ある前提を疑うか疑わないか。結局はその強度がそのまま正しさの強度になる。一般的には正しさという概念は正しいか正しくないかの二律背反で捉えられているが、僕の中では正しさには明確に強度の濃淡がある。では、何がその強度を築き上げるのか。これは信念の類であるから、社会の在り様をそのまま反映する。現代は宗教ではなく科学の時代である。「一般的」というワードは科学という概念に吸収してしまおう。では、科学における正しさの強度とは何か。つまり、前提と矛盾しないことの強度とは何かということである。同じ命題に触れたとしても議論の在り方においてその強度は変わってくる。専門的な領域においては厳密な証明の手順をたどるわけだが、要するにこれは「論理」という疑い得ないルールの下でどれほどの複雑性の城が築き上げられているかということである。もっと言うと、他者から突っ込まれないための自衛のための防護柵をどれだけ万全に整えられているか。それが正しさの強度である。

僕はアカデミア(アカデミズム)からは距離を取った身であるし、在野の研究者、思想家にも一定の価値を認めたいと考えている人間ではあるが、そうした市井の研究者、思想家はアカデミアからは「馬鹿にされている」ことが多い。名も無き学者とアカデミアの学者の違いは何か。それはこれまでの人類の思考の蓄積に対する知識量の多寡である。学問とは真理の追究のことであり、真理それ自体は後付けの知識とは無関係のはずである。しかし、残念ながら多くの場合において世の「自称」学者の言説は、知識の無さこそがあだになっている。つまり、他者から突っ込まれないための自衛のための防護柵がものすごく甘い。それはシンプルに「論理的な」思考力が不足しているからである。しかし、それはアカデミアの学者に比して在野の学者の思考力が明確に劣っているということを直接意味しているわけではない。アカデミアの学者も一部を除けば大した思考力があるわけではない。では、この決定的な差はどこから生まれているのか。現代におけるアカデミアとは、他者から突っ込まれないための自衛のための防護柵の作り方を教える機関であることを忘れてはならない。真に思考力のある人間ならば、別にアカデミアに属してそのような方法を学ばずとも己の身一つ(ゼロベース)で真理について言及することは可能なはずである。しかし、数学に証明の手順があるように思考の正しさもその構築の手順が既に一般的に共有されてしまっている。その手順に従わない言説は一般的な正しさの強度を持たない。

正しさの強度に絶対の手続きを要求する今の社会の在り方には僕は大いに疑問を持ってはいるが、これは当分修正されることはないだろう。たとえば、いつの日かAIが学術研究の大半を担い、人類が「正しさ」から解放されるような時代が来たなら、その時には人類は「正しさ」という概念をAIという外部世界に投げ、自由に(ただ)生きるということも可能になるかもしれない。現代においては、正しさとは単なる手続きの「複雑性」によって裏付けされるものであり、それを実行するには何だかんだ言って一定の能力が必要である。すなわち、正しさを決めているのは(現代において重視されている)能力を持つ者である。

正しさもまた、広義の能力主義で塗りつぶされている。

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