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システムではなく実体へ……家族の在り方すら変わる【全文公開】


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先日、とある方が某媒体で「取締役と執行役員の違いがわからない奴は頭がパーだ」とかなんだとか、そういうことをおっしゃっていた。生涯絶対に関わりたくない(話が通じない)方だなぁという印象を受けた。自分の生きている世界に付着した現実感の中だけで生きている人の典型例だ。想像力を持たない「具体性の化物」と言える。この方に限らず、いわゆるSNS界隈で有名な方というのは、総じてこういう傾向にある方々ばかりであろう。その手の「ポジティブオラオラ自己啓発なんちゃって知的ビジネスパーソンお金持ってます」みたいな方々と、もしも一緒にお酒を飲む機会があったなら、僕はお金を払ってでもお断りする。ただ住む世界が違うので関わりたくないだけであり、単なる僕の好き嫌いである。

さて、そんな、僕の現在の活動の起点は、一応YouTubeなる媒体(まだギリギリSNSと呼べるだろうか)にある。しかし、僕は活動当初からYouTuberを目指す気など全くなかった。いまも、ない。

僕は自分に先見の明があるなどとは思っていない。先見の明とは、近い将来を見通しいまに活かす力である。僕にあるのは、物事の本質、理(ことわり)にこだわる信念だけである。

正直な話、小学生以前、物心ついた段階から、いまの社会に対する違和感は、ずっと、あった。貨幣経済に対して、である。概念で実体を管理するシステムに、異常なまでの違和感があった。いま、社会の情報化が極限まで進みつつある中、幼い僕が抱いていた違和感を、何十年越しかでようやく、一般的にも認知する人がちらほら出てきた感はある。

経済の概念化は一層進んだ。もはや金融商品の一体どこに実体があるか、素人には見極めるのは困難だし、YouTubeで広告収益を得ることにも実体はない。幼稚園児だった何十年も前の僕の目に見えていた嘘の世界、それと同じ構造、いびつな構造が、いまの僕の目にも変わらず見えている。

しかし、「見える」ことと「活かす」ことは違う。だから、僕には先見の明はないのだ。あったなら、今頃長者番付に名を連ねている。しかし、見えているものはあるので、それは伝えていきたい。

我々人類は、生活いや生存のためのルーティンを役割分担して取り出し、社会全体のシステムに投げることで効率化を押し進めた。「◯◯主義」などと呼ばれるようなものが、そういう役割を担っている。効率的なシステムの下で我々は生かされている。

幼い僕が疑問に感じたことは、そこにある。システムというのは、誰かが作ったものであり、それが運営されているなら当然運営する者がおり、すなわち管理者が存在する。当たり前すぎてもはや誰も何の疑問も抱いていないことが、僕には恐ろしいと同時に理解できないのだが、「社会」とは基本的には、システムによって、人間が人間を管理する構造を指す。だから、SF小説のディストピアを持ち出すまでもなく、既にとっくの昔に社会のディストピア化は始まっている。システムに依存して生きている我々は、システム管理者の奴隷でしかない。

システムというのは、中央集権的構造と言い換えても良いかもしれない。どんな名前を与えたところで、結局のところ、個人の経済活動の動機は重商主義的であり、中枢という概念がある限り、原理的に富は中枢に蓄積される。だから、経済格差というのは、あって当たり前のものというか、システム内での経済活動とは格差拡大活動と同値であると言っても過言ではないだろう。今日的な意味での経済活動は、その定義自体に初めから格差を含んでいる。

ここまで情報化を押し進め、社会活動全般の効率化を押し進める上で、中枢を持つシステムが機能してきたことは十分理解できる。人類の進歩に「システム」は必要不可欠なものだった。これは、歴史的には避けられぬ「段階」だったのだろう。そして、いま情報化、すなわちデジタル化が進む中、「効率化」が行き過ぎている。システムというのは、早い話が役割分担した「効率性」に手数料を課して徴収することで維持されている。そう、ここまでデジタル化すなわち効率化が遍く広がった世界において、我々にはもはや手数料の支払いなしにはいかなる活動も許されていない。

さらに、である。

その手数料というのを、国家ではなく一企業、一個人が握るということが当たり前に起きている。もうとっくの昔に我々は「自由」になど暮らせなくなっている。いわば、呼吸をするのすらどこかの誰かにお金を支払わなければならない「ような」世界を生きているのだ。

そんな中、たとえばYouTuberなんてものを職業として認めるという考えに、僕は全く理解が及ばない。もちろんビジネスのシステムは理解している。そういうことではない。YouTubeというのは一企業に依存したサービスである。まともな意味での「インフラ」ではない。現に、職業YouTuberはYouTubeの規約変更に振り回され続けている。YouTubeで利益を得ることに、何の実体もない。完全なる虚業である。

僕もYouTubeに多少の動画投稿をする中で、「可能性」を検証するため、一応動画に広告はつけている。しかし、それを「専業」にすることを目指すつもりは、全くない。

資本主義社会と呼ばれる社会になって以降、情報集約のためのシステムは、既に当初の想像をはるかに超えた。集約が起き過ぎている。これを解消するいくつかの理論上の方法は思いつくが、なかなか難しいだろう。一番シンプルなものは、集約が起き過ぎているなら、単純に集約そのものをなくせば良いという理屈だ。つまり、中央をなくせば、集約という概念自体がなくなり、格差もなくなる。僕の思想を平たく言えば、そういうことだ。ただ、それは単に分散型のシステムにすれば良いというものとも少し違う。「システム」そのものとの関わり方を変えるべきだと考えているのだが、それは長くなるので、また別枠でこれから少しずつ話していきたい。

最後に、いまの僕の活動について念を押して終わりにする。

僕がYouTuberあるいはインフルエンサーとして「上」を目指さないことは、それが虚業であるからというのは、いま説明した。そして、始めたことが「小規模コミュニティの運営」である。そこが理念的に、はたして辻褄が合っているのかということだ。

無論合っている。

僕は、データのトラフィックではなく、実体のあるつながりそのものが経済活動として回るような生活圏とつながりたいのだ。デジタル化がここまで来たからこそ、システムを離れた実体の価値が逆説的に再発見される道理なのである。

どこの誰ともわからぬ人間が自分の動画を見たことから得られる1円にも満たない広告収益をかき集めるシステム、一企業が提供するシステム、全く実体のないシステム、そんなものに依存したくない。素人には中身のわからないタイプの情報非対称な金融商品も同じことである。

せっかく、ここまで情報化が進んで、その社会で、いま我々にできるようになったことは何か。まさにその「情報」の共有である。ただし、僕がいま意図している情報共有は、早い者勝ちを目指す「情報ディバイド」ではない。自分の考え、思想、信念、そういったものを深く共有することを指している。そういう「深い」情報共有が、格段に容易になった。ただ単に学校のクラスが一緒になったという以外に何の根拠もない友達や、場合によっては家族よりも、お互いに「近さ」を感じられる人間関係が、容易に結べるようになった。容易すぎるがゆえの問題もあるが、そこを慎重に検討するなら、これはある種の新しい「家族の在り方」とすら言える気がしている。

こうしたコミュニティは、何十年単位で見た時、究極的には「養子縁組」など何らかの法的手続きで、より強く結びつき、利害を丸ごと共有することで、いまとは異なる新しい家族の形をなすのではないかという可能性すら感じている。

効率的なシステムがあまりにも遍く行き届いたがゆえに、人間はそうしたシステム管理者から離れて暮らすために、新しいコミュニティ、村、家族、そういうものの在り方を発明せねばならなくなった。ならなくなる。僕はそう感じている。

僕がコミュニティ運営に対して感じている理念は、ビジネス系のギラギラしたオンラインサロンなどとは全く異なる。10年後、20年後、30年後につながる「生き方」を模索してのことである。

その萌芽は僕が幼稚園児であった頃にさかのぼるため、30年以上温められたものだ。一朝一夕の思いつきではない。

誰も見ていない世界をずっとひとりで見て生きてきた。いまも見ている。僕は、その意味を問いながら、そして新しい価値を提出しながら、これからも自分の人生を生きていく。

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