問題と人

問題と人との幸福な関係。

「これ、なあんだ?」

と、ちいさな子どもがお母さんに問題を出している。
お母さんが答えると、子どもはけらけらと笑いながら、次の問題を出そうとする。

児童館にいると、そんなやり取りをよく見る。
問題と人とが仲良く遊んでいるみたいな光景。

でも、それはちいさい時だけのこと。
そう思っていたのだけれど、似た光景が中高生の学習会で繰り広げられて、かなり驚いた。

おとといと昨日は、ハロウィンということで、僕たち大人メンバーも仮装して学習会を運営した。

僕は「営業途中にトラックにはねられて死んだバンパイア」という設定。
ほかのメンバーもそれぞれにかなり凝った衣装で登場して、場は大いに盛り上がった。

「クイズをしたい」と中学生から言われていたので、僕たちは事前にいろんな雑学クイズを用意していた。

で、僕はふと思い立って、そこにこんな問題を混ぜてみた。

愛知県の公立高校の入試問題。

まあ、だれも解かんだろうと半分シャレのつもりで混ぜておいたのだけれど、この予想はまったく外れた。

学習会がはじまってすぐ、一人の高校生がホワイトボードに書かれたこの問題をじっと見つめ、そして、おもむろに解きはじめた。

「あれまー」と思ってみていたら、はじめてから20分くらいで、誰の力も借りずに解いてしまった。

これには、驚いた。

なぜなら、彼は普段、この問題よりずっと初歩の問題でつまずいている子だったから。

別の問題が書かれたホワイトボードの前には、人だかりができていた。

「オレ、解ける」
「えっ、どう解くの?」

子どもたちが相談しながら、ワイワイと楽しそうに問題を解いていた。
それは、この学習会の仕事に就いてからずっと「こうなったらいいな」と思っていた光景そのものだった。

もちろんこの日はハロウィンで、「解けたらお菓子」というご褒美があったからそのせいかもしれない。でも、それにしても、みんなの問題に向き合う姿勢はふだんと全然ちがった。なにより楽しそうだった。

もう一つ、この日の運営でよかったことがある。
それは、雑学のクイズが混ざっていたこと。

この問題は、僕も子どもたちの勉強をみているサポーターも全く解けなかった。

そんなふうに「わからん!」と悶絶している大人を見るのは、子どもたちにとってはじめての経験だったに違いない。

学校で出される問題だと、大人が「わかる」側、子どもたちが「わからない」側に固定されてしまう。でも、この雑学クイズだと大人も子どもも同じように「わからない」し、場合によっては先に解かれてしまう。

この「逆転可能性」があることが、僕たちと子どもたちと、それから問題との関係をますますよくするように思えた。

「問題もこんなふうに解かれたらうれしかろうな」

と思った。

うちの学習会の本棚には、手付かずになった問題集が並んでいる。
そこには数百問、数千問の問題が収録されているはずだが、そのほとんどは一年中見られることがない。

学校の宿題として出される問題は見られるだけマシだが、それでも子どもたちの目は冷ややかだ。

自分を高めたり、なにかを教えてくれたりする「学びの素材」としてではなく、面倒な作業として課された問題は、子どもたちを死んだ目にする。

ちいさい頃には、あんなに楽しく遊んでいたのに。

すべてがそうとは言えないだろうけれど、問題だって「こうしたら実力がつくのではないか」という出題者の意図や思いが入ってつくられている。

その気持ちがまったく届かないばかりか、子どものいきいきとしたエネルギーを削いでいるのだとしたら、なんとも残念ではないか。

ハロウィンの学習会にいきなり現れたにぎわいは、問題と人とのやさしい関係を回復したようにさえ思えた。

ただ、紙に書かれていたものをホワイトボードに書き、人の輪の中に置いただけで。

学習会は「問題を解く楽しみをともにする場」である。
そう思うと、ふだんの景色がぐにゃっとゆがんで、新しいなにかが出現する感じがした。

その未来の中では、問題と人とが手をつないで、けらけらと笑っていた。

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