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初潮を迎えた時、夕食にお赤飯が出てきて「ふざけんなよ」って思った話。

今、川上未映子の「夏物語」という小説を読んでいる。本作は同作家の「乳と卵」という小説の続編ともいえる作品。まだ読み始めて間もないが、物語の前半は「乳と卵」のストーリーを再構築し、夏子、巻子、そして緑子がそれぞれ自分の身体についての意識が描かれている。私は特に、緑子の「生」や「性」について書かれた日記の部分が印象的で、生理についても、半出生主義的なところも、初潮を迎えたばかりの私が感じていたことと共通することは多分にある。

まず、私が初潮を迎えたのが10歳か11歳の時で、体格もよく、当時はクラスの背の順でもかなり後ろの方に並んでいた。
ある日突然、下着に点々と汚れが着くようになって、それは真っ赤というよりかは赤茶色の、今までに見たことのない色の汚れを見て、正直戸惑いを覚えた。すぐに、血かもしれないと思ったけれど、下着を汚すという罪悪感と、それを母親に伝える恥ずかしさと、これはもしかすると重大な病気かもしれないという恐怖で、すぐに母親に相談することができなかった。

それでも、謎の汚れは続いたため、意を決して母親に相談したことを覚えている。自宅のトイレで私と、私の汚れた下着を見て、ハッとしたように「とりあえずこれ使っとき」と、母親が使っている淡いピンクのカサカサとした紙に包まれている生理用ナプキンを手渡された。その後すぐに母親は慌ただしくドラッグストアで生理用のショーツを買ってきてくれた。
買ってきてくれた生理用ショーツは、淡いピンクでちょったしたレースがついていて、私が普段身につけている子ども用の洋服や下着に比べ、大人っぽいというか、いやらしさみたいなものを感じて、子ども服とのちぐはぐな組み合わせが居心地悪かった。

学校で最初に性教育を受けたのか、全く記憶に残っていないけれど、男女で教室を別れて、女性教師がナプキンの当て方を模型を使って実演しているのを見て、勉強は得意ではなかったけれど、この時ばかりは予習をしていたので、女性教師の話を聞きながら意気揚々と「そんなん知ってるし」と思っていたような気がする。だから私は、性教育を受ける前に初潮を迎えてしまったのだと思う。

母親から、生理のしくみについて聞かされたんだと思う。「卵子が」とか「受精」とか、そういう直球な表現ではなくて、「赤ちゃんのベッドが~」というようなぼんやりした表現で、要は「妊娠できますよ」っていう説明を受けた。
その時は今いちピンとこなかったけれど、それは当然のことだと思うし、自分の中でとてつもなく大きな変化が起こっているのだと分かり、怖かったとも思う。
身体的にも精神的にもまだまだ未熟であるにも関わらず、10歳で妊娠ができるって、言い方が悪いがちょっと気持ち悪いことだと思う。
一方で、生理用ショーツを買い与えたり、生理の説明をしている母親はどこか嬉しそうだった。母親からすれば、娘が大人の階段を一段登ったというような感覚になるのだろうか。

「女の子は、生理が来たらお赤飯でお祝いするんだよ」と母親に言われ、その日の夕食にはお赤飯が出された。
我が家には日常的にお赤飯を食べる習慣がない。それなのにも関わらず、ある日突然、お赤飯が食卓に出てきた。ましてや、積極的に日本の風習(?)を取り入れている家庭でもない。ある意味、異常だと思った。
夕食のお赤飯を、父親と母親と私の3人で食べた。食卓で、私の初潮について、母親が話題にあげたかどうかは覚えていないけれど、父親から何かを言われた記憶もないし、「察しろ」みたいな雰囲気はあったと思う。けれど、私は初潮がきたらお赤飯でお祝いをする意味が分からなかったし、そもそもめでたいかと言われたら、100パーセントの気持ちでめでたいとは今も言いきれないような気がする。
そして、自分自身が女の子から女性になりつつあること、その過程に初潮があること、それを最も遺伝子的に近く、身近な異性である父親に知られたくなかった。父親のことは嫌いではなかったけれど、父親に私の女性性を感じさせることはなるべく避けたかったことだし、本能的にそうなるようになっているのだと思う。けれど、夕食にお赤飯が出たことによって、「娘が初潮を迎えました!」ということを祝福というかたちで公にされてしまった。これは、立派なアウティング行為だと思う。
そんな、勝手に祝われて、勝手に秘密にしておきたかったことをバラされて、大して好きでもないお赤飯のボソボソとした小豆を複雑な心境で食べた。
何でお赤飯なのかっていうと、恐らく血を表してるんだろうなと想像はついたし、そもそも食べ物で経血を連想させることに、気持ち悪さというかセンスのなさを感じた。
何の根拠もない私の勝手な想像だけれど、子どもでお赤飯が好きという子は少ないだろうし、これがアイスでも、カチカチのあずきバーは子どもよりもお年寄りが食べているイメージがある。どうせ祝うなら、ケーキとかお肉のほうが、現代っ子は喜ぶと思う。
YUIの歌詞で「真っ赤なブルーだ」というフレーズが出てくる曲があるけれど、この場合も色んな意味で真っ赤なブルーだった。

最近では、生理に関するドキュメンタリーが制作されたり、生理用品の種類もデザインも増え、多数の中から自分に合ったものを選択できるようにもなった。会社によっては生理休暇が設けられていたりするし、生理に関する諸症状に悩む身としては、良い風潮だなあと思う。生理について理解しようという男性も増えているようにも感じてきているし、話してもいいと思える男性なら、理解して欲しいからこそ自然に話していきたいとも思う。また、生理前~生理中はどうしてもパフォーマンスが落ちるため、そんな時は「生理中で、適切な判断ができそうにないので、今日は資料確認できません!」と潔く事実を伝えている。
けれど、やはり父親に対しては「股から出血なんてしてませんよ」みたいなすまし顔をしていたいと思う。
初潮がきてから15年近く経つが、それでもあのお赤飯が出された夜の小っ恥ずかしさというか「ふざけんなよ」みたいな思いを、今も鮮明に覚えている。

社会の中で自分が女性として見られることを、望んでいるような、望んでいないような、どちらとも言えない。けれど、家庭という社会の中では、私は女性として見ないで欲しいと望んでいるのである。



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