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【ロシアの歴史】社会主義の宗教・建神主義

1.はじめに

マルクスの「宗教はアヘンである」という言葉に示される通り、共産主義は反宗教的であり、1917年に権力を握ったボリシェヴィキは苛烈な宗教弾圧を行ったことで知られています。しかし、そのボリシェヴィキの中には、社会主義時代の新しい宗教をつくろうとした人々がいました。なぜ宗教に批判的であるはずの彼らが、そのような試みをしたのでしょうか。今回は、社会主義の宗教運動である「建神主義」と、その歴史的意義について見ていきたいと思います。

2.神になるプロレタリアート

1905年以降、人間が神となるという観念にとりつかれたボリシェヴィキの理論家たちが現れました。この運動は「建神主義」と呼ばれ、彼らの中で指導的役割を果たしていたのが、アナトリー・ルナチャルスキーです。ルナチャルスキーは、マルクスを宗教思想家と見なして独自の再解釈を行い、神とは社会主義的人間のことであると宣言しました。その宗教理論は『宗教と社会主義』(全2巻,1908-1911)という大著にまとめられました。

アナトリー・ルナチャルスキー(1875-1933)
革命家、政治家、文筆家。チューリッヒ大学で哲学を学び、革命後は教育人民委員(教育大臣にあたる)に就任した

ルナチャルスキーによれば、現在の人間は生物進化の最終段階ではなく、不完全な存在です。同時に、彼は自然は法則や合理性など存在しないカオス的なものと見なしており、人間は自然に積極的に働きかけ、それをつくりかえ統御し、支配しなければならないと主張しました。こうした自然との闘争を通じて、人間は物質的にも精神的にも進化していき、やがて全宇宙をも支配するようになると唱えました。

建神主義の強い影響下に置かれたのは、作家のマクシム・ゴーリキー、ソ連時代に国家計画委員会(ゴスプラン)で活動するヴラジーミル・バザーロフ、通商・交通・貿易人民委員となるレオニード・クラーシンなどがあげられます。彼らはプレハーノフの唯物論に与するレーニンと対立し、独自の「フペリョート(前進)派」を結成します。

マクシム・ゴーリキー(1868-1936)
作家であり、戯曲『どん底』などが有名。革命後はプロレタリア文化運動に参加した

3.唯物論と決定論への批判

レーニンは、こうした宗教への傾倒を、1905年のロシア第一革命の挫折とそれに続く政治的反動によって、一部の理論家たちが観念論や神秘主義へと逃避した一時的な偏向と見なしました。しかし、バザーロフはこれに反論し、こうした思想的傾向は1905年以前から、19世紀から20世紀への世紀転換期に生じたものであると指摘しています。では、なぜ彼らは宗教と社会主義を結び付けようとしたのでしょうか。

建神主義者たちが問題視していたのは、当時のマルクス主義の機械的唯物論決定論でした。マルクス主義の理論は、「下部構造が上部構造を規定する」という定式に示される通り、生産様式(下部構造)、すなわち経済が政治、社会、文化(上部構造)を決定するというものでした。建神主義者たちにとって、こうした決定論的世界観は、人間を必然性に従属する受動的存在とし、人間の存在、生、思考に何ら意味を与えず、ペシミズムに陥るものでした。

ロシア・マルクス主義の父 ゲオルギー・プレハーノフ(1856-1918)
プレハーノフは、マルクスの哲学を18世紀のフランスの唯物論やフォイエルバッハと連続した唯物論哲学として体系化した

さらに、決定論と深く結びついているものとして、個人主義を批判しました。ゴーリキーは、個人は権利を自分のものとして確保しようとし、そのため、個人は保守的となり、世界を不変のものとみなすようになると断定し、そのうえで、創造の能力をもつのは集団だけであると主張しました。

こうした唯物論・決定論への批判は、建神主義者たちに特有のものではありませんでした。ロシアを含め、当時のヨーロッパ全体で、それまでの支配的な知的原理であった「実証主義」「唯物論」「自然主義」から、あたらしい世界観をつくろうとする動きが生じていました。これを「実証主義への反逆」と言います

マルクス主義の中では、ニコライ・ベルジャーエフが同じように唯物論と決定論を批判し、マルクスから宗教・カント哲学へと転換していきました。バザーロフは彼と共通の問題意識を持っていると述べています。また、ドイツ社会民主党においてベルンシュタイン修正主義を提唱したのも、こうした文脈においてでした。

ニコライ・ベルジャーエフ(1874-1948)
もともとは「合法マルクス主義」の立場にあったが、新カント学派を経て、ヴラジーミル・ソロヴィヨフの宗教哲学へと至った。彼の所属していたグループはその論集『道標』の名から、道標派と呼ばれる

4.再解釈されるマルクス

人間に積極的な意義を与え、また、集団的創造を可能とするものとして注目されたのが、「宗教」でした。ルナチャルスキーは、宗教とは、人間にとっての理想と現実とのギャップを克服したいという渇望をもたらす世界についての思考、世界感覚であると定義しました。彼は、この渇望を「タスカー」と呼び、タスカーは人間を積極的な行動へと駆り立てる衝動であり、人間の理想が大きくなるにつれて理想と現実のギャップは大きくなるのだから、人間にとって宗教が不必要になることはないと主張しました。

演劇「冬宮奪取」の一場面(1920年)
ルナチャルスキーは演劇を建神主義と結び付けており、演劇によって強い「創造的タスカー」が生まれると考えていた

さらに、宗教とは熱狂であり、その熱狂が個人主義を克服し、バラバラとされた人間を団結させ、自主的で積極的な行動へと駆り立てる、もっとも有効な力と考えました。つまり、集団的熱狂のエネルギーこそが人間の想像力の源泉であり、そして宗教こそが大衆のこのエネルギーを引き出すことができるとみなされたのです。

ルナチャルスキーは、宗教は世界を解釈しようとしただけの「古い宗教」から、積極的に世界をつくりかえる「新しい宗教」へと転換したとし、この宗教の転換をもたらした人物こそマルクスであると指摘しました。彼は、マルクス主義こそがすべての宗教の中でもっとも宗教的な宗教であり、マルクス主義者こそがもっとも宗教的な人間であるとしました。

5.集団的不死

建神主義者たちの思想の核となっていたのが、不死の獲得、あるいは死の克服という構想でした。自然を克服するべきものであるとみなした建神主義者たちにとって、死もまた乗り越えなければならないものであり、それは文字通りの肉体的不死でなければなりませんでした。さらに、個人的不死や救済はありえず、それは集団的な不死であると考えられていました。

では、集団的不死とはどのように実現されるのでしょうか。ルナチャルスキーは、死を克服する手段を2つあげています。1つは医学の発展による死の克服であり、科学や技術もまた集団的創造物であると見なしていた彼にとって、これもまた一種の集団的不死でした。

そしてもう1つが、個人の自我が集団の中に保たれるというものです。これは一見すると、死んだ個人が集団に記憶されるという考え方に見え、肉体的不死ではないように思えます。しかし、建神主義者たちは人々の集団的働きかけによって、物理的物体さえも生み出すことが可能であると構想していたようです。ゴーリキーはその小説『懺悔』(1908年)の中で、無数の群衆による奇跡的な祈りによって、少女が肉体的に蘇生する様を描いています。

建神主義者たちにとって、不死の獲得とは集団的協同なくしてはありえず、集団的協同を行うためには、集団的人間の創造が不可欠でした。つまり、不死を獲得した人間とは、生物としてより進化した未来の人間であり、これこそが建神主義における信仰の対象でした。ルナチャルスキーは、宗教とは人間を、超人、すなわち美しく力強い生物、生と理性とが自然に対する勝利をおさめる完全無欠の有機体へと導くものであると述べています。

6.まとめ

建神主義は20世紀初頭に登場し、そのまま立ち消えたわけではありませんでした。1917年の革命後、ゴーリキーはプロレタリア文化を創造しようとするプロレトクリト運動に参加しました。この運動は芸術によって集団的身体を形成しようと試みたものであり、建神主義が目指したものと同じ方向性を持つものでした。さらに、ソヴィエト政権が行った社会主義的な祝祭や儀礼の導入も、建神主義の影響であると指摘されています。

建神主義に影響を受けていたクラーシンは、1921年のある党員の葬式において、将来科学が万能なものとなり、死者を復活させることができると確信しており、偉大な歴史的人物をも蘇らせることができるだろうと述べています。その彼が、1924年にレーニンが亡くなった際、その遺体の保存処理を推進しました。レーニンの遺体の保存は、単に彼を偶像として利用したわけではなく、将来レーニンが復活するという確信のもとに行われたものだったのでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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ボリシェヴィキによる宗教弾圧については、こちら

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