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ざっとわかるカールの戴冠

こんにちは、ニコライです。今回は少し小休止ということで、いったん目線を西ヨーロッパに向けたいと思います。

以前に西ローマ帝国の滅亡について書きましたが、今回はその続きとなります。5世紀以降、ゲルマン人が割拠するようになった西ヨーロッパでしたが、その中でも有力部族であったフランク人によって統一国家が築かれます。このフランク王国は、7世紀後半に登場したカール大帝によって現在のフランス、ドイツ、北イタリアを支配する大帝国に発展し、その功績からカールは「ローマ皇帝」に戴冠されます。今回は、西ヨーロッパ世界の形成に大きく影響したフランク王国「カールの戴冠」について見ていきたいと思います。

1.ローマ教会とフランク王国の同盟

フランク人はゲルマン人の一派で、4世紀にライン川を越えてローマ帝国領に侵入し、現在のオランダ南部からベルギー北西部のあたりに定住しました。その後、481年に王位に就いたメロヴィング家クローヴィスによって統一王権が築かれ、6世紀初頭にはガリアのほぼ全域を支配するようになります。8世紀当時、メロヴィング家はすでに衰退しており、それに代わって、王国の宮宰であり、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム勢力を撃退したカール・マルテルの一族であるカロリング家が、実質的に王権を握るようになっていました。

カール・マルテル(688-741)
「マルテル」とは「鉄槌」という意味で、後に付けられた渾名。この時代の人々は苗字を持っておらず、「カロリング家」も「カールの子孫」という意味

このカロリング家に目を付けたのが、ローマ教会です。6世紀以降、ローマはイタリア半島に侵入したランゴバルド族による攻撃に悩まされていました。しかし、教会の本来の保護者であるビザンツ帝国は、バルカン半島のスラヴ人や東方のイスラムとの戦いに手いっぱいで、イタリア半島に救援を向けることはなく、また、当時のビザンツはイコン崇敬を禁止する「イコノクラスム」(イコン破壊運動)を推進しており、両者の断絶は一段と深いものになっていました。

8世紀半ばのイタリア半島
灰色がランゴバルド王国領、オレンジ色がビザンツ帝国領
By Aistulf's Italy-it.svg: Castagnaderivative work: InvaderCito - This file was derived from: Aistulf's Italy-it.svg:, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28541034

教皇ザカリアスはカロリング家の当主ピピン3世に接近して彼の王位継承を後押しします。ピピンの方も、自身の王位簒奪を正当化するために、ローマ教会の宗教的権威を利用することにしました。751年、ピピンは最後のメロヴィング家の王キルデリク3世を廃位し、教会の儀式にのっとって国王に戴冠します。754年、ピピンはさっそく教皇の要請に応え、ローマ周辺を支配していたランゴバルドを討伐しました。本来であれば、ランゴバルドから取り戻したイタリア中部の土地は帝国のものであるはずですが、ピピンはローマ教皇に寄進します。こうしてフランク王国はローマ教会公認の保護者となり、ローマ教会はビザンツ帝国との決別を図ったのです。

ピピンの寄進
ピピンが寄進したイタリア中部領は、ローマ教皇領の起源となった

2.カール大帝の登場

ピピンの死後、王国はその二人の息子カールカールマンに受け継がれましたが、771年にカールマンが急死したため、カールが単独の支配者となりました。

カール大帝(742?748?749?-814)
『カール大帝伝』を著した年代記作家エインハルドゥスは、カールの出生について言及することを避けている。理由としては、ピピンの婚姻前の子であるという説やピピンの実子ではないとする説など、王位継承に問題が生じる訳があったのではないかと考えられる

後に大帝と呼ばれるカールは、生涯を通じて積極的な対外遠征を行った君主であり、その47年間の治世の中で、戦争を行わなかったのはわずか2年だけでした。773年から翌年にかけては、教皇ハドリアヌス1世の救援要請によってランゴバルド族を討伐し、これを征服・併合します。772年から始まったザクセン征服は30年以上にわたる長期戦となりましたが、804年にこの異教徒の地を完全に征服します。777年から778年にかけては、ピレネー山脈を越えて後ウマイヤ朝のイスラム軍とも戦火を交えました。こうした征服戦争によって、王国はその所領をピピン時代の2倍にまで拡大しました。

フランク王国の領土の変遷
青色がピピン時代のフランク王国領、オレンジ色がカール時代に獲得した領土
By cyberprout (talk · contribs) - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1835724

西ヨーロッパで一大帝国を築いたカールは、相当な自信と自負を抱くようになりました。アッバース朝のカリフに対しては朝貢をなすべきであるという態度で接しており、ビザンツ皇帝に対しても対等な存在であるという意識で臨んでいます。カールの自負とは、自分は「ヨーロッパの支配者」であるというものであり、それは本人だけでなく、当時の教会関係者も抱いていたことでした。大帝の「聖戦」その勝利を目の当たりにした彼らには、それが「西ローマ帝国」の復活に見えたのです。

3.ローマ教皇の策謀

「カールの戴冠」を実行に移すこととなるのが、795年に教皇に選出されたレオ3世です。この教皇は敵の多い人物であり、799年には敵対するローマ貴族に襲撃され、怪我を負わされます。幸いどの傷も深手ではなく、教皇は自身の身を守るためにカールに保護を求め、大帝の滞在するパーダーボルンへと向かいました。しかし、カールは教皇を送り返し、ローマでの裁判でこの争いに決着をつけることにしました。

レオ3世(750?-816)

何が何でもカールを味方につけたいレオ3世は、カールをローマ皇帝に戴冠させるという破天荒な作戦を思いつきます。教皇はアングロ・サクソン人の修道士アルクィンに大帝を説得させますが、さすがのカールも自身が皇帝となることで生じる重責やビザンツ帝国との軋轢を不安に感じ、優柔不断になりました。そこで教皇は、当然のハプニングという形で戴冠を実行することにします。

800年12月25日、イエスの生誕を祝う聖なる日にミサに参加するべく、カールはサン・ピエトロ大聖堂に赴きました。カールが告解をして祈りを捧げ立ち上がろうとしたそのとき、レオ3世が近づき、彼に塗油して冠をかぶせ、すぐさま会衆が「皇帝万歳!」と祝意と賛意を示したのです。こうして58歳となっていたカールは皇帝に即位し、300年ぶりに西ローマ帝国の復活が宣言されたのです。

カールの戴冠
後にカールは「もし教皇の意図をあらかじめ推察できたなら、のこのことあの教会に踏み込んだりしなかった」と述べたという

4.ビザンツ帝国の反応

この計画を実行するうえで、レオ3世が最大の障壁と考えたのがビザンツ帝国です。476年に西ローマ皇帝が廃位された際、皇帝の徽章は東の皇帝に返還されていたため、西ヨーロッパの宗主権はビザンツ帝国が握っていました。また、ビザンツ帝国は、皇帝はこの世にビザンツ皇帝ただ一人であると主張していたことから、二人目の皇帝は認められないだろうことは容易に予想できることでした。

レオ3世やフランク人たちに「カールの戴冠」の理屈を与えたのは、797年に起きた帝国の政変でした。その年、息子を摘眼刑に処したエイレネがローマ帝国史上初の女性皇帝となりましたが、ローマ教会にしろ、フランク王国にしろ、男性社会である西ヨーロッパの人々にとって女性が皇帝になることはありえないことでした。彼らはローマ皇帝の座はコンスタンティノス6世の廃位をもって空位となったと認識したのです。

カールの戴冠はビザンツ帝国の威信大きく傷つけることとなりましたが、結局エイレネはカールを皇帝と認め、さらには大帝と結婚しようとさえしました。二人の皇帝が結婚することで、東西の帝国を再び一つに統合しようとしたのです。しかし、これが実現する前に、802年に彼女はクーデーターによって廃位されます。

エイレネ(左)とカール(右)
エイレネが乗り気だったカールとの縁談も、ゲルマン人を「野蛮人」とさげすむビザンツ人臣下たちの反感を買い、失脚の原因のひとつとなった

エイレネの跡を継いだニケフォロス1世はカールの戴冠を認めず、両国はヴェネツィアで戦争となりましたが、次代ミカエル1世の時代になるとカールを「皇帝」として認めることになりました。ただし、カールはあくまで「フランク人の皇帝」であり、「ローマ人の皇帝」称号は譲りませんでした。

5.教皇権の確立

カールの戴冠は、これまでの皇帝の戴冠と大いに異なる点がありました。それはローマ教皇がローマ皇帝を戴冠したことです。これは全く前例のないことでした。

レオ3世が教皇による戴冠の根拠としたのが、『コンスタンティヌスの寄進状』という偽文書です。これによれば、ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝ローマ教会に帰依し、帝国の西半分をローマ教会に寄進したとされています。つまり、ローマ教皇は西ヨーロッパにおける聖俗の両権を有するとなるわけですが、教皇自身が皇帝になるわけにはいかないので、ローマ教会の保護者として皇帝を選任することができる、というのです。

ローマ教皇シルウェステルに寄進するコンスタンティヌス大帝
『コンスタンティヌスの寄進状』は、もともと大帝が洗礼を受けたラテラノ大聖堂の下級聖職者が、大聖堂の地位を高めようと作成した偽書であった。レオ3世に利用されたことで、中世最大の偽文書と呼ばれるようになる

教皇による戴冠は、教皇は皇帝よりも地位が高いということを意味しました。カール大帝は教会をしのぐ地位を保持し続けましたが、次代ルートヴィヒ以降、教皇は戴冠と塗油の権利を主張するようになります。こうしてローマ教皇は、西ヨーロッパのキリスト教世界のトップとしての地位を確立することとなりました。

6.まとめ

カールの大帝国は、その後子孫たちによって西フランク、東フランク、ロタール王国に分割され、今日のフランス、ドイツ、イタリアの原型となった、というのは有名な話かと思います。そうした領土的な意味もさることながら、西ヨーロッパがビザンツ帝国から自立した別の世界、すなわちギリシャ文化圏とは異なる独自のラテン文化圏として発展していく契機となった、という意義も大きいと思います。

カールの戴冠以降の西ヨーロッパでは、皇帝に即位するためには教皇による戴冠が必要であるという考えが定着しました。これはローマ教会が国家から自立した組織となっていくことにつながりますが、同時に教皇権と皇帝権のどちらが上か、という中世を通して行われる対立の原因にもなりました。教皇による戴冠が終焉するのは、カールの戴冠から約1000年後、ナポレオンが勝手に皇帝と称するまでかかりました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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同時代のビザンツ帝国については、こちら

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