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ざっとわかるリトアニア大公国の歴史

1.はじめに

リトアニアは、バルト海東岸部に位置するバルト三国のひとつです。国土面積は北海道の8割ほどで、日本ではあまり馴染みのないマイナーな国かと思います。しかし、中世においては、東欧最大の国家として威勢を誇り、隣国モスクワやドイツ騎士修道会としのぎを削っていました。今回は、そんな中世の大国リトアニアの歴史を見ていきたいと思います。

2.ドイツ人のバルト進出とリトアニアの統一

リトアニアの統一国家形成のきっかけとなったのは、ドイツ人のバルト進出でした。1147年のヴェンデ人との戦いを皮切りに、ドイツ諸侯はバルト地域の異教徒を強制改宗させるための十字軍を繰り返していました。これを通称北の十字軍といいます。

北の十字軍は、宗教的な目的もさることながら、ノヴゴロドやキエフ大公国との交易路や、バルト地域の豊富な食糧資源・琥珀などの鉱物資源などを確保するという、経済的な目的もありました。ドイツ人たちは、エストニア、リヴォニア(現ラトヴィア北東部)を征服し、リーガやタリンなどの港湾都市を拠点にバルト地域を植民地化しました。さらに、1225年にはドイツ騎士修道会が招聘され、プロイセン征服活動に従事し、リヴォニアを征服していた刀剣騎士修道会を併合したことで、バルト東岸を支配する騎士修道会国家が誕生しました。

1260年頃のバルト地域。オレンジ色の部分が騎士修道会国家
By S. Bollmann, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10595723

こうして中、ドイツ人たちの進出を逃れたのが、リトアニアでした。リトアニアは地形が峻険で、資源もあまり魅力的ではなかったため、ドイツ人たちからあまり関心を得られなかったのです。こうして時間を稼ぐことができたリトアニアは、君主ミンダウガス大公のもと、統一国家の形成に成功します。

ミンダウガスは当初、東方から侵攻してきたモンゴル軍に対抗するため、カトリックへと改宗し、ローマ教皇に接近します。しかし、改宗によりリトアニアを侵略する理由を失うことを恐れたドイツ騎士修道会は、ローマからの司教派遣を妨害します。さらに、騎士修道会は実効支配を目指し、リトアニアへと侵攻しますが、1260年のドゥルベ湖畔の戦い大敗します。

ミンダウガス大公(?-1263)
彼は改宗後、ローマ教皇から戴冠され、歴代で唯一のリトアニア王となった

ミンダウガスは方針を転換して、キリスト教を棄教し、今度はノヴゴロドのアレクサンドル・ネフスキー公と同盟しますが、1263年に暗殺されます。

3.リトアニアのルーシ方面への拡大

1316年に大公となったゲティミナスの時代から、リトアニアは大国化していきます。ゲティミナスは征服活動や婚姻政策により、現在のベラルーシ方面へ領土を拡張します。リトアニアの支配下におかれたルーシ諸公国は、ゲティミナスの一族が公位を占めるようになりますが、彼らは正教会へと改宗し、ルーシの言語を国家語として使用するなど、ルーシへと同化していきました。さらに、1316年~1330年の間には、リトアニア領内に府主教座も確保します。

ゲティミナス大公(1275-1341)
リトアニアの首都はもともとノヴォグルドク(現ベラルーシ領)であったが、ゲティミナスは夢のお告げによってヴィリニュスへと遷都した。ヴィリニュスは現在でもリトアニアの首都である

ゲティミナスの死後、跡を継いだアルギルダスは、当時ルーシを支配下に置いていたキプチャク・ハン国もを打ち破り、ヴォルイニ、チェルニヒフ、キエフ、さらにドニプロ川東岸をも支配下に置きました。こうして、リトアニアは旧キエフ大公国領の3分の2を支配下に置く大国となり、リトアニアの君主は、「リトアニア大公」に加え「ルーシの公にして継承者」を自称しました。

アルギルダス大公(1296-1377)

アルギルダスは、さらに北東ルーシをもその手中に収めようとします。アルギルダスは、モスクワ公国と敵対関係にあったトヴェーリ公国婚姻による同盟関係を結び、1368年~1372年にかけて、トヴェーリ公とともにモスクワへ侵攻します。この戦いは1373年~1374年に、コンスタンティノープルから来た主教キプリヤンの仲介で和議が結ばれ、リトアニアの北東ルーシへの拡大は停止させられますが、領内に恒久措置として、リトアニア府主教座の設置が認められました。

4.ポーランドとの連合

旧キエフ大公国領を支配下においたリトアニアでしたが、一方で、騎士修道会との戦いは続いていました。統一国家となったリトアニアに対し、騎士修道会は、エストニアやリヴォニアで行ったような全面的な征服戦争を仕掛けることができませんでした。彼らは夏と冬の一定期間の間に、村や要塞を襲撃、略奪し、反撃を受ける前に帰還するという「軍旅」を行うようになりました。軍旅は14世紀を通して続きましたが、騎士修道会の戦いはもはや宗教的性格を失い、単なる「人間狩り」へと変貌していました。

騎士修道会に対抗するため、ゲティミナスはローマ教皇へとカトリックへの改宗の意志を表明し、その代わりに騎士修道会の停戦を要求しました。停戦は1324~28年の間に実現し、ゲティミナスはさらなる対抗措置として、娘アルドナをポーランド国王の息子カジミェシュと結婚させ、ポーランドとの同盟関係を築きました。ポーランドはカトリック国でしたが、騎士修道会にポメラニア、クヤウィア、ドブリンを征服されたうえ、ポーランド東部やマソウィアまでも脅かされていたため、リトアニアとは利害が一致していたのです。

1370年頃のポーランド(赤線枠内)
青色がリトアニア、薄緑色がドイツ騎士修道会領
By Poznaniak - Own work na podstawie "Ilustrowany atlas historii Polski, wyd. Demart, Warszawa 2006", CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4296211

ポーランドとリトアニアの関係をより密にしたのは、1385年の「クレヴォの合同」でした。1377年にアルギルダスが死去した後、息子のヨガイラが大公位を継ぎました。ヨガイラが、ドイツ騎士修道会とモスクワ公国との圧力に苦しんでいた際に、ポーランドからポーランド王位を提示されました。

ヨガイラ大公(1362-1434)
ポーランド語ではヤゲヴォといい、彼の開いた王朝をヤゲヴォ朝という

ポーランドの貴族たちは、ヨガイラを王にすることで、王位を狙うハプスブルク家のオーストリア公ヴィルヘルムを退けつつ、リトアニアを改宗させれば、ドイツ騎士修道会の侵攻を止めることができると考えていました。こうしてヴィリニュス近郊のクレヴォで合意がなされ、ヨガイラはポーランド王女ヤドヴィガと結婚・改宗し、ポーランド王ヴラディスワフ2世として即位しました。

ポーランド王女ヤドヴィガ(1373-1399)
結婚の際、彼女はわずか12歳、ヨガイラは33歳だった
優れた外交手腕をもっていたが、第一子を出産した直後に26歳で死去。

5.リトアニアの黄金期・ヴィタウタス大公の時代

合同の後、ヨガイラは大公位とリトアニアの支配権をめぐり、従弟のヴィタウタスと熾烈な争いを繰り広げます。争いは長期にわたりましたが、最終的に、ヨガイラはヴィタウタスをリトアニア大公に任命します。

ヴィタウタス大公(1352-1430)

ヴィタウタス大公の時代は、リトアニア大公国の黄金期でした。ヴィタウタス大公はさらなる領土の拡大を行い、ドニエストル川からドニプロ川にまたがり、さらに現在のオデッサを含む黒海沿岸地域をも支配下に置き、バルト海から黒海に至る広大な領土を獲得しました。さらに、1406~08年にはモスクワ公国と戦い、スモレンスクを征圧しました。

1434年のリトアニア(赤線枠内のうちピンク色)
By Poznaniak - własna praca na podstawie "Ilustrowany atlas historii Polski, wyd. Demart, Warszawa 2006", CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9423686

そして、ヴィタウタスの最大の功績は、宿敵であったドイツ騎士修道会と決着をつけたことでした。騎士修道会領のサモギティアでのスラヴ人の反乱をきっかけに、1409年、騎士修道会はポーランドに宣戦布告します。ポーランド・リトアニアの連合軍は、騎士修道会の本拠地であるマリエンブルクを目指して進撃します。

そして、1410年7月15日、2万人の騎士修道会軍と、3万~5万人といわれる連合軍が、タンネンベルク(現ステンバルク)近郊で激突しました。リトアニア軍は開戦後まもなく乱れ始め、ポーランド軍も劣勢となっていきました。しかし、ヴラディスラフ(ヨガイラ)と敵軍の騎士との一騎打ちが始まり、観戦のために攻撃が中断されたことで、連合軍は態勢を立て直しました。修道会軍は連合軍に包囲されて壊滅し、敗北しました。

タンネンベルクの戦いを描いた木版画(1597年)
近代になると、この戦いはドイツ人にとって民族の汚点と認識されるようになる。それを払拭するために、第一次世界大戦でドイツ軍がロシア軍(ポーランド人と同じスラヴ人)を破った戦いは、同じく「タンネンベルクの戦い」と命名された。

この「タンネンベルクの戦い(ポーランドでは「グルンヴァルドの戦い」、リトアニアでは「ジャルギリスの戦い」と呼ばれる)」で、騎士修道会は総長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン、11人の管区長、その他多くの騎士たちを失う大損害を被り、さらに、捕虜となった騎士たちの買戻しも、膨大な金銭的負担となりました。騎士修道会は急速に弱体化し、1422年にメルノ湖畔の和約を結んで以降、リトアニアと騎士修道会との係争は消滅しました。

6.まとめ

中世リトアニアの特徴は、宗教を利用した外交政策にあると思います。リトアニアが最終的にキリスト教を受け入れるのは、1385年のクレヴォの合同の際であり、ヨーロッパの中では最も遅かったです。それまでのリトアニアは多神教を信仰する「異教」にとどまりながら、一方ではカトリックへ、一方では正教への改宗をちらつかせながら、同盟関係を形成していきます。ヨーロッパ史上、カトリック、正教、そして「異教」へとその都度、都合に合わせて宗旨替えし、巧みな外交政策を行った国は他には無かったでしょう。

しかし、こうした外交政策も、ポーランドとの連合が成立したことで終焉します。リトアニアの貴族たちは宗教だけでなく、言語さえもポーランド人と同化していきました。両者はやがて行政組織をも一体化させていき、16世紀後半には同君連合を築くこととなります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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ロシアとドイツ騎士修道会の戦いについては、こちら

近代になるまでリトアニア領であったベラルーシの歴史については、こちら


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