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【人物史】ロシアの国民的英雄 アレクサンドル・ネフスキー

1.はじめに

ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーは、ロシア史上最高の国民的英雄とされています。アレクサンドル公はモンゴルを懐柔する一方、二度にわたるカトリック勢力の侵攻を退け、ロシアと正教会を守り抜いたと言われています。今回は、アレクサンドル・ネフスキーの実像について、見ていきたいと思います。

2.ルーシへの十字軍

1147年のヴェンデ人に対する十字軍を皮切りに、ドイツ諸侯はバルト地域の異教徒を強制改宗させるための十字軍を繰り返していました。これを通称北の十字軍といいます。北の十字軍はエストニア、リヴォニア(現ラトヴィア北東部)を征服しました。1225年にはドイツ騎士修道会が招聘され、プロイセン征服活動の従事し、さらにリヴォニアを征服していた刀剣騎士修道会を併合したことで、バルト東岸を支配する騎士修道会国家が誕生しました。

1260年頃のバルト地域。オレンジ色の部分が騎士修道会国家
By S. Bollmann, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10595723

エストニア、リヴォニアを領有することとなったドイツ騎士修道会は、ギリシャ正教を奉じるノヴゴロドと国境を接することとなりました。十字軍とルーシ諸公は以前から何度かしのぎを削ってきましたが、ルーシ諸公は正教の伝道にはあまり関心がなく、騎士修道会もあえて事を構えることはしませんでした。

しかし、1204年に第四回十字軍がコンスタンティノープルを占領して以降、ローマ教会はギリシャ正教を支配下に置こうとする試みに着手しました。1222年、ローマ教皇ホノリウス3世は、ギリシャ正教を奉じるルーシを「分離主義者」と呼び、ルーシにラテンの典礼を強制するように呼びかけました。1224年~1234年には、ドルパット(現エストニア・タルトゥ)をめぐり、リーガの軍団とノヴゴロド公ヤロスラフが攻防戦を繰り広げました。

続くグレゴリウス9世は、1237年にモーデナのウィリアムを特使として派遣しました。ウィリアムは戦いを決意し、ルーシに対する十字軍の派遣を準備しました。

3.ネヴァ河とチュード湖の戦い

1240年、スウェーデン軍がルーシ北方の都市ノヴゴロドを占領するために進軍し、イジョラ河とネヴァ河に流れ込む河口に陣を敷きました。これを撃退したのが、ヤロスラフの子ノヴゴロド公アレクサンドルです。彼はこの戦いでの功績からアレクサンドル・ネフスキー(「ネヴァ河のアレクサンドル」の意)と呼ばれるようになります。

アレクサンドル・ネフスキー(1220-1263)

1242年、今度はドイツ騎士団がノヴゴロドの衛星都市プスコフへと侵攻しました。このとき、アレクサンドル公はノヴゴロドの貴族や市民と争い、父ヤロスラフにいるペレヤスラブルへと居を移していました。しかし、プスコフが占領され、ヴォド、チュード地方が征服されると、ノヴゴロドの市民はアレクサンドルを再び公に迎えました。1241年秋までに、プスコフは解放され、ヴォド地方から侵略してきたカトリック勢力は追い出されました。そして、チュード湖の戦いでドイツ騎士修道会を打ち破りました。

『プスコフに入城するアレクサンドル・ネフスキー』
グリゴリー・ウグリュモフ、1793年

この二回目の十字軍について、ロシア側の記録では、アレクサンドル公が強力な侵略軍を大量に殺害し、捕虜にしたとされています。しかし、カトリック側の記録によれば、ドイツ騎士修道会はプスコフに2名の騎士しか残しておらず、その被害も死者20名、捕虜6名とされており、両者の記録は著しく異なっています。

ロシアとドイツのどちらの記録が正確な情報を伝えているのかはわかりません。しかし、ノヴゴロドへと侵攻した当時の騎士修道会は、プロイセンにおける征服活動に苦戦しており、ノヴゴロドで全力で戦う余裕はなかったと思われます。そのため、実際のチュード湖の戦いは、ロシア側で伝えられているよりも、スケールの小さいものであったのではないかと考えられます。

4.モンゴルへの臣従

バトゥ率いるモンゴル軍は、1237年にルーシの地に到来し、1238年にはウラジーミルを始めとする北東ルーシ諸都市を陥落させ、1240年にはポーランド、ハンガリーへの遠征をおこない、その過程でキエフを陥落させています。つまり、アレクサンドル公が北の十字軍と対峙していた当時は、モンゴル軍侵攻のただ中だったのです。アレクサンドル公はネヴァ河の戦いにあたり、直ちにモンゴルと和議を結び、恭順の意を示しました。

1246年、父ヤロスラフ大公が亡くなると、アレクサンドル公と弟アンドレイ公との間で相続問題が起こりました。バトゥの裁定により、いったんは相続条件が定められますが、アレクサンドル公はこれに不満を持ち、バトゥの長子サルタクに訴えて懲罰軍を派遣させ、アンドレイ公を追い出し、大公位を継承しました。

騎馬民族の武力を利用して、政敵を圧倒・排除する戦略は、以前からルーシ諸公の中で行われていました。しかし、モンゴルの武力を利用したのはアレクサンドル公が初めてであり、これ以降、モンゴルはルーシの継承問題に度々介入するようになります。

5.愛国主義のシンボルとなるアレクサンドル公

1263年に亡くなったアレクサンドル公は、1547年、イヴァン4世の治世下において列聖され、ギリシャ正教の聖人となりました。さらに、ロシアの近代化に尽くしたピョートル1世もアレクサンドル公の信奉者であり、1712年、サンクトペテルブルクに聖アレクサンドル・ネフスキー大修道院を建設され、その聖遺骸が安置されました。大聖堂が建立されたのは、アレクサンドル公がスウェーデン軍を破ったまさにその場所とされています。さらに、1722年にはアレクサンドル・ネフスキー勲章が制定されました。

アレクサンドル・ネフスキー大修道院
By Andrew Shiva / Wikipedia, CC BY-SA 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=50827970

時代は飛んで1938年、ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインによる映画『アレクサンドル・ネフスキー』が公開されました。エイゼンシュテインは、内戦下のスペインにおいてドイツ軍がゲルニカを爆撃し、多くの市民を虐殺したことに対し衝撃を受け、この出来事を13世紀のドイツ騎士修道会による侵略に重ね合わせて、この映画を製作しました。

セルゲイ・エイゼンシュテイン(1898-1948)
ソ連映画史を代表する映画監督

この映画はソ連国内で圧倒的反響を呼びましたが、1939年8月に独ソ不可侵条約が結ばれると、ドイツを刺激することを恐れたソ連指導部によって、上映を差し止められました。しかし、1941年に独ソ戦が始まると再び解禁され、侵略者の暴虐とロシア人民の反撃、ドイツ軍の敗北を示し、人々を鼓舞し続けました。

映画『アレクサンドル・ネフスキー』におけるアレクサンドル公
この映画はスターリンに高く評価され、エイゼンシュテインはレーニン勲章を受章した

1990年7月14日には、ネヴァ河の戦い750周年記念祭が、聖アレクサンドル・ネフスキー大修道院において催されました。モスクワ総主教アレクシー2世は、アレクサンドル公を「ロシアと正教を守り抜いた英雄」、「卓越した軍司令官」、「正教会のよき息子」とたたえました。

6.まとめ

アレクサンドル・ネフスキーの活動の歴史的意義について、以下の2点があげられると思います。

①カトリックと正教会の境界線の確定
ネヴァ河の戦い、さらにチュード湖の戦いにおいて、アレクサンドル公はカトリック勢力を打ち破りました。この戦いの実像については、先に述べましたが、それでもこの出来事によって、ルーシのカトリック化は断念されたのは事実です。カトリックと正教会の両世界の境界線は、チュード湖とプスコフをつなぐ線上で確定され、以降もノヴゴロドへの十字軍は度々行われたものの、境界線が変更されることはありませんでした。

②タタールのくびきの始まり
アレクサンドル公のモンゴルへの臣従は、モンゴルの圧倒的武力には抗しがたいことを察知した公が、あえて無用の流血と荒廃を回避した、というイメージで語られています。しかし、アレクサンドル公がモンゴルを利用したのは、高潔な理由ではなく、自らが大公位を継承するという野心のためでした。また、アレクサンドル公により、モンゴルがルーシの継承問題に介入するようになったということは、「タタールのくびき」はアレクサンドル公によって始められたと言えます。

最期まで読んでいただき、ありがとうございました。

参考

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