見出し画像

ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史3 キエフからモスクワへの遷座

1.はじめに

キエフ・ルーシの首都キエフは、988年にキリスト教が受容されてからは府主教座が置かれ、ルーシのキリスト教文化の中心地となりました。しかし、古都キエフは、キエフ・ルーシが分領国家化すると次第に地位を低下させ、モンゴルの侵攻により荒廃し、やがて中心地としての地位を新興都市モスクワへと譲ることとなります。今回は、キエフからモスクワへと、ルーシのキリスト教の中心地が移動した経緯を見ていきたいと思います。

2.タタールのくびき

1237年、バトゥ率いるモンゴル軍がルーシの地に到達しました。リャザン、スーズダリ、ウラジーミルなどルーシの有力諸都市が次々に攻略され、1240年には、キエフを陥落し、キエフ・ルーシは終焉を迎えました。

1242年、大ハン・ウゲティの死の知らせが伝えられると、バトゥは西方遠征を中止し、ヴォルガ川下流に「サライ」という町を築き、ルーシ支配の拠点としました。バトゥの国は位置していた平原の名前から「キプチャク・ハン国」と呼ばれました。

13世紀前半のキエフ・ルーシとキプチャク・ハン国
北方に位置するノヴゴロドやプスコフ以外のすべてのルーシ諸公国が、バトゥによる侵攻を受けた
By SeikoEn - Own work - Other example of similar map:
http://izbornyk.org.ua/litop/map_1240.htm, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11197816

ルーシの諸公たちはサライの宮廷に出向き、バトゥへの臣従の礼をとらされました。バトゥはルーシ諸公の公位に対する「叙任権」を握ることで、ルーシをその支配下に置きました。さらに、14種類に及ぶ「貢税」が課され、ルーシ諸公はこの徴税を代行しました。

一方で、モンゴルは宗教に対しては寛容でした。正教会は布教の自由を認められ、免税特権が与えられ、財産は保護されました。

3.カトリックとの闘い

東方からやってきたモンゴルに支配されることとなったルーシでしたが、それと同時に西方からの脅威にもさらされました。それはローマ・カトリック勢力でした。

ルーシとカトリック教徒とは、国境を接するリヴォニアやエストニアで以前から接触があり、当初は協調的な関係を築いていました。しかし、1204年に第四回十字軍がコンスタンティノープルを占領して以降、東西の教会は厳しく対峙するようになります。1222年、ローマ教皇ホノリウス3世は、ギリシャ正教を奉じるルーシを「分離主義者」と呼び、ルーシにラテンの典礼を強制するように呼びかけました。

続くグレゴリウス9世の時代には、ルーシに対する十字軍が組織され、1240年にはスウェーデン人の大軍がルーシ北方の都市ノヴゴロドに攻め入り、1242年には今度はドイツ騎士団がプスコフへと侵攻しました。この2回渡る十字軍を退けたのが、ノヴゴロド公アレクサンドルです。アレクサンドルはモンゴルと和議を結ぶ一方で、ルーシ軍を結集し、ネヴァ河の戦いでスウェーデン軍を、チュード湖氷上の戦いでドイツ騎士団をそれぞれ打ち破りました。彼はネヴァ河での功績からアレクサンドル・ネフスキー(「ネヴァ河のアレクサンドル」の意)と後に呼ばれるようになります。

アレクサンドル・ネフスキー(1220-1263)
現在に至るまで、ロシア愛国主義の象徴的存在となっている

アレクサンドル公の勝利によって、ローマ教会による北東ルーシのカトリック化の試みは挫折しました。また、こうしたカトリック勢力からの攻撃は、第四回十字軍によってビザンツ人がそうなったように、ルーシに反カトリックの感情を抱かせました。

4.キエフ府主教座の遷座

ノヴゴロド公国やウラジーミル・スーズダリ公国などの北東ルーシが、親モンゴル・反カトリックを掲げたのとは対照的に、ハーリチ・ヴォルイニ公国を中心とする南西ルーシは、カトリックへと接近しました。

ハーリチ、ヴォルイニの両公国を合併して新王朝を開いたロマンの息子ダニーロは、サライにてバトゥに臣従の礼をとりましたが、これを屈辱に感じ、ローマ教皇との提携に踏み切りました。1249年、ダニーロはローマ教皇インノケンティウス4世から戴冠を受け、反モンゴル十字軍の招集を要請しました。

ウクライナ西部のリヴィウにあるダニーロ公のモニュメント
リヴィウはダニーロによって建設され、息子レフにちなんで名づけられた
By Maksym Kozlenko - Own work, CC BY-SA 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=67093673

こうした南西ルーシのカトリックへの接近を脅威と受け取ったのが、キエフ府主教キリルでした。モンゴルの侵攻によって荒廃したキエフから、府主教座を安全な所へ動かすことを検討していたキリルは、親カトリックの南西ルーシではなく、カトリックとの対決姿勢を見せた北東ルーシを頼ることにしました。

動座の準備を進めていたキリルは1282年に死去しますが、1299年に後継者のマクシモスによって、ウラジーミルへの動座が実現しました。ただし、動座後も名称はそのまま「キエフならびに全ルーシの府主教」でした。これは、キエフ以外の都市名を冠することは、ルーシの教会組織の統一性を阻害する可能性があったためでした。

aaaaa
ウラジーミルのウスペンスキー大聖堂
モスクワに遷座するまで、キエフ府主教座の座所となった

5.モスクワへの接近

モンゴル侵攻後、諸公国が分立していたルーシを統一するために抗争を繰り広げたのが、新興都市であるトヴェーリモスクワでした。トヴェーリはアレクサンドル・ネフスキーの甥ミハイルの家系が、モスクワはアレクサンドルの末子ダニールの家系がそれぞれ公となり、ウラジーミル大公位を巡り争いました。

1304年にウラジーミル大公位を得たトヴェーリ公ミハイルは、マクシモスが亡くなり空位となったキエフ府主教に自身の息のかかった人物を据え、府主教を傀儡化しようとしました。しかし、コンスタンティノープル総主教は、ハーリチ・ヴォルイニ公ユーリイが推挙するピョートルをキエフ府主教に任命します。ウラジーミルへ着任したピョートルを追い落とそうと、ミハイルはその後も陰謀を企てますが、失敗します。

キエフ府主教ピョートル(1260-1326)
周りに彼の生涯が描かれた15世紀のイコン

ミハイルからの仕打ちを受けて、ピョートルはトヴェーリと敵対するようになり、トヴェーリと大公位を争っていたモスクワに接近します。1325年、モスクワ公イヴァン1世の時代に、ピョートルはウラジーミルからモスクワへと府主教座を密かに遷座します。ピョートルは翌年に亡くなりますが、
その後任となった新府主教テオグノストスもモスクワを座所としたため、これ以降、キエフ府主教座はモスクワに置かれることとなりました。

モスクワのクレムリン内にあるウスペンスキー大聖堂
イヴァン1世によって建設された大聖堂は、府主教座ピョートルの死後に彼の墓所となった
現在の建物は1470年代に立て直されたもの
By Daniel Kruczynski - originally posted to Flickr as [1], CC BY-SA 2.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11626604

トヴェーリが自らの支配から脱する勢力となることを恐れたウズベク・ハーンは、モスクワに肩入れするようになります。1327年、ハーン国の貢税の強制徴収に対しトヴェーリの民衆が反乱を起こすと、ウズベクはイヴァン1世にルーシ諸公軍を率いらせ、トヴェーリを攻撃させました。ミハイルの息子トヴェーリ公アレクサンドルはプスコフへと亡命しますが、府主教テオグノストスから破門宣告を受けたことで降伏し、処刑されます。

イヴァン1世(1288-1340)
金の入った袋を常に持ち歩いていたことから、カリター(財布公)と呼ばれている

6.まとめ

キエフからモスクワへと府主教が遷座していく過程は、ルーシの政治権力の中心地がキエフからモスクワへと移動してく過程でもありました。ルーシ統一の象徴であるキエフ府主教を獲得し、大公位をめぐる宿敵であったトヴェーリを打ち破ったモスクワは、こうして全ルーシ統一のための第一歩を踏み出したのでした。しかし、それはまだ不安定な状態にあり、モスクワが真に政治と宗教の中心地としての地位を確立するには、さらに100年ほどの歳月が必要でした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

参考

◆◆◆◆◆

前回

次回


この記事が参加している募集

世界史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?