見出し画像

ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史13 ロシア革命と無神論国家の誕生

1.はじめに

1917年の帝政ロシア崩壊によって、ロシア正教会は国家の支配から解放されました。しかし、彼らの前には帝政以上に恐ろしく、そして厳しい弾圧を加える無神論者たちが立ちはだかりました。今回は、ロシア革命後の正教会と無神論を表明したボリシェヴィキによる宗教弾圧について見ていきます。

2.ロシア革命と総主教制の復活

1917年2月、ペトログラード(現:サンクト・ペテルブルク)で起きた労働者たちによる大規模なストライキは、やがて革命運動に発展しました。これを受け、3月2日にニコライ2世は退位し、300年間続いたロマノフ朝は終焉しました(2月革命)。

帝政にとって代わった臨時政府は、正教会を特別扱いすることをやめ、他の宗教も認めようとしました。帝政時代に教会を管轄していた宗務院の代わりに宗教省が設置され、アントン・カルタシェフが宗教大臣に就任しました。そして、カルタシェフの働きかけにより、ピョートル大帝以来廃止されていた公会議が開かれることとなりました。

8月15日からモスクワで開催された公会議には、278名の信徒代表を含む564名の代表が出席しました。11月15日には総主教を選出することが決定され、18日に、モスクワの救世主ハリストス大聖堂で総主教選任のための祈祷式が行われました。3人の候補者の中から、モスクワ府主教ティーホンが11代目の総主教に選ばれました。こうしてロシアでは200年ぶりに総主教制が復活しました。

総主教ティーホン(1865-1925)
俗名ヴァシリー・ベラーヴィン。プスコフ出身
第一次大戦の際にヴィリニュスで戦病兵・戦傷兵の慰問に務め、この功績によってモスクワ府主教に昇叙されていた

3.ボリシェヴィキの反宗教政策

しかし、ティーホンが総主教に選出される10日ほど前、ペテログラードでは臨時政府に代わり、ボリシェヴィキが政権を奪取していました。ボリシェヴィキが基盤とした共産主義は反宗教的であり、また、ロシア正教会が帝政の精神的支柱であったことから、国家と社会に対する宗教の影響を排除しようとしました。

共産主義の提唱者カール・マルクス(1818-1883)
マルクスは「宗教はアヘンである」といったが、この場合のアヘンとは麻薬ではなく鎮静剤という意味であり、「宗教は支配による苦しみを和らげ、革命を妨げるもの」というのが言わんとするところである

ボリシェヴィキの宗教政策は、主に3つの方策からなっていました。第一に、政教分離、さらに宗教と教育の分離です。教会が設立した学校は廃止されるか、国公立へと移管され、宗教教育も神学校を除いて廃止されました。第二に、教会・聖職者への差別政策です。教会は法人格を、聖職者は公民権を剥奪されました。さらに、食糧配給カードが支給されない、高額の税を課せられるなどの過酷な仕打ちをうけました。

第三に、教会財産の没収です。10月革命の直後、ボリシェヴィキは「土地について」という布告で、土地の私有制の廃止と国有化を断行しました。教会は収入基盤を奪われ、さらに教会の施設や聖器物も「人民の財産」として没収されました。1914年に1025あった修道院のうち670が閉鎖されました。

4.苛烈な弾圧

内戦期に入ると、これに逮捕処刑といった直接的弾圧が加えられました。ティーホンによれば、18~20年の間に、少なくとも28名の主教が殺害され、聖職者数千人が投獄、処刑され、1万2000人の信徒が宗教を活動を理由に死に至らしめられました。

こうした弾圧の原因となったのが、教会財産の収奪をめぐる争いです。ボリシェヴィキによる食糧の強制徴発により飢餓が発生すると、ティーホンは飢餓救済委員会を設立し、救済活動に乗り出しました。しかし、ボリシェヴィキは、救済は国家による仕事であるとし、教会の救済活動を抑え、代わりに教会財産を差し出すように命じました。これに対し、各地で信者が激しく抵抗し、政府軍と流血の衝突が起きました。その数は1414件にも上るとされています。

特に厳しい弾圧が加えられたのが、内戦が終結する1922年においてでした。同年4月から5月にかけて、教会財産収奪に対して抗議した54人の聖職者および信徒が、モスクワ最高裁判所で裁判にかけられました。この「五十四人裁判」では、司祭8人、信徒3人が死刑を宣告され、26人が投獄されました。

内戦後は、科学的無神論を広め、「啓蒙」によって人々を宗教から離れさせる方策がとられました。1924年には無神論者同盟が結成され、『反宗教者』、『闘争する無神論主義』、『村の無神論者』といった雑誌が盛んに発行されました。同盟の会員は、1920年代末には50万人近くに上りました。

5.教会の内部分裂

教会への弾圧は、教会組織の分裂をもたらしました。教会内部には、ティーホン総主教の方針に批判的な2つのグループが生まれていました。

1つは、親ボリシェヴィキ的な革新派の聖職者によるグループです。このグループは「生ける教会」を名乗り、1922年5月、秘密警察チェカの支援を受けてモスクワ総主教庁を占拠し、ソヴィエト政権に対する忠誠と服従を表明し、教会財産の没収を積極的に支持しました。これに対し、ペトログラード府主教ヴェニアミンが彼らに破門宣告をしましたが、逆に告発され、裁判にかけられて処刑されました。

ペトログラード府主教ヴェニアミン(1873-1922)
貧しい信徒たちにさまざまな慈善活動を施し、慕われていた。しかし、そのカリスマ的魅力と労働者階級に人気の高い聖職者という存在は、ソヴィエト政権にとって好ましくないものであった

ソヴィエト政権は「生ける教会」を合法的組織として認め、正教会が禁止されていた公会議の開催神学校の設立などを許可しました。当然、彼らの狙いは教会の内部抗争を激化させ、内部から教会を破壊することにありました。

もう1つは、ティーホン総主教により強硬な態度をとるべきと主張した右翼グループです。彼らは内戦期に白衛軍(帝政復活を掲げた反ボリシェヴィキ派の軍隊)を支持し、敗北後に亡命した聖職者と信徒たちで、1921年のスレムスキー・カルロヴィツの宗教会議で、「在外ロシア正教会」を設立しました。

会議において、反ボリシェヴィキ・帝政復活を主張するアントニイ府主教の支持者が多数派となると、さらなる弾圧を恐れたティーホンは、ロシア正教会は彼らとは何も関係がないことを宣言しました。これに対し、アントニイはティーホンを公然と弾劾し、以後80年以上にわたって、在外教会はロシア正教会に対し異議申し立てをし続けることになります。

在外ロシア正教会のメンバー(1927年)
前列左から3番目がアントニイ府主教。在外ロシア正教会とロシア正教会とが和解するのは、分裂から80年以上たった2004年のことである

6.国家への忠誠宣言

1925年4月7日、ティーホンは永眠します。ティーホンは万が一の事態に備え、3人の総主教代理を指名していました。しかし、そのうち2人はすでに投獄されており、残った1人も12月にシベリア送りになってしまいます。

こうして、主教たちの順で事実上の正教会首長となったのが、ニジニ・ノヴゴロド府主教セルギイでした。総主教代理となったセルギイは、当初は、教会の信仰と共産主義は相いれないというティーホンの方針を強く守ることを表明していました。しかし、1926~27年にかけて3度の投獄を経験すると、正教会の合法化を獲得するためには、ソヴィエト政権と妥協せざるを得ないという方針へと転換しました。

総主教代理セルギイ(1867-1944)
もともと「生ける教会」運動に参加していたが、後にティーホンと和解し、正教会の正統性を擁護するようになる

1927年7月29日、セルギイと7人の高位聖職者が、ソヴィエト政権との和解と融和を誓約する忠誠宣言に署名しました。セルギイはモスクワに移ることを許され、公会議を開催する許可も獲得しました。しかし、教会の置かれた状況はそれほど改善しませんでした。聖職者の逮捕は依然として続き、一時再開された神学校も2年後には閉鎖され、正教会の合法性は認められず、総主教の選出も許可されませんでした。

さらに、スターリンが独裁的に権力を掌握し、急速な工業化と農業集団化が図られる20年代末になると、教会の状況はますます悪くなりました。1929年には「宗教団体に関する法律」が発効し、宗教団体の活動は大幅に制限されました。集団化に反対する農民が信徒であったという理由で、1440の教会が強制的に閉鎖されました。

1930年2月、セルギイは、生存している主教を全員逮捕するという脅迫によって強制され、「ソ連に宗教迫害は全く存在しない」という屈辱的な公式声明を発表しました。セルギイには、ソヴィエト政権に妥協することで弾圧が少しでも緩和されればという期待もありましたが、その後も30年代を通して、教会には壊滅的な迫害の波が襲いました。

爆破される救世主ハリストス大聖堂(1931年)
ナポレオン戦争の勝利を記念するために建てられた大聖堂は、1931年12月にスターリンの命令で爆破された

7.まとめ

帝政崩壊によって自由を手に入れたロシア正教会でしたが、それも束の間、ボリシェヴィキによる激しい弾圧に苦しめられました。1940年代初頭、収監されていない高位聖職者は、セルギイ総主教代理を含めわずか4名という状態でした。

しかし、それでも正教の信仰は衰えませんでした。表面上は教会は閉鎖されて姿を消しましたが、信徒たちは秘密警察に知られないよう「地下教会」で活動を続けていました。何年も閉鎖されていた教会が、迫害が緩和された時期に再開されると、すぐにいなくなったはずの信者たちであふれたと言われています。いつの時代・どこの場所でもそうですが、迫害時の信徒たちの粘り強い活動には本当に驚かされることが多いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

◆◆◆◆◆
前回

次回

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?