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【近現代ギリシャの歴史14(終)】ユーロ危機の展開

こんにちは、ニコライです。今回は【近現代ギリシャの歴史】第14回目、今回で最終回となります。

前回の記事はこちらから!

2009年、ギリシャはヨーロッパ全体を巻き込むとんでもない騒動を起こします。それはEU圏内で起きた経済危機の連鎖、通称ユーロ危機です。ユーロ危機は2008年のリーマン・ショックによってすでに落ち込んでいたヨーロッパ経済にさらなる打撃を与え、多くの国で財政悪化、大量失業、長期の経済停滞を招きました。今回はギリシャ財政危機に端を発するユーロ危機の展開について見ていきたいともいます。


1.バブル経済にうかれるギリシャ

1993年に発効したマーストリヒト条約により、欧州共同体(EC)は欧州連合(EU)へと発展し、さらなる経済的統合を推し進めるために、1991年までに統一通貨「ユーロ」を導入することを決定します。ギリシャもユーロ導入に舵を切り、ユーロ加盟の四条件(物価の安定化、財政の健全化、為替相場の安定、長期金利の安定)を満たすために、インフレ率の抑制、財政立て直しを目指しました。この改革により、GDP比13パーセントにも上った財政赤字は2000年には1パーセントにまで低下し、他のEU加盟国から2年遅れの2001年、ギリシャはユーロ導入を果たしました。

統一通貨ユーロ
貿易や海外旅行など、あらゆる国際活動の決済を容易にするユーロの導入は、ギリシャにとって魅力的なものだった。
CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=82765837

ユーロの導入はギリシャに経済成長をもたらしました。ユーロの低金利住宅投資、消費、設備投資を刺激したからです。ユーロに加盟したことで西欧の大銀行もギリシャ人に気前よくお金を貸し付けるようになり、個人も企業も政府さえも借金を膨らませる消費・財政ブームとなり、ギリシャはバブル経済へと移行しました。首都アテネではインフラ整備が進み、オンボロの中古車があふれる雑然とした街並みから、高級車が行きかう西欧的な街並みへと変貌していきました。

現在のアテネの街並み
CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=134258931

2004年には、アテネで第1回から108年ぶりとなるオリンピックが開催されます。その開会式では、古代から現代に至る壮大なギリシャの歴史を表現したパレードが行われ、ギリシャの栄光を国内外に示しました。このパレードに国民は大感動し、しばらくの間この話題で持ちきりだったそうです。しかし、バブルのお祭り騒ぎはそう長く続きませんでした。

2004年アテネ・オリンピックのオープニング・セレモニー
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25450

2.財政赤字の発覚

2009年の総選挙で、右派の新民主主義党ND)から左派の全ギリシャ社会主義運動PASOK)へと政権交代が起きました。PASOK党首ヨルゴス・パパンドレウは、首相に就任すると早々に前政権による財政赤字の隠ぺいがあったことを暴露しました。GDP比3パーセントと報告されていた同年の財政赤字は、実は13パーセント(最終的には16パーセントとなった)にも上り、さらにはその累積残高はすでにGDP比100パーセントを超えていたことが判明したのです。

ヨルゴス・パパンドレウ(1952-)
PASOK創設者アンドレアス・パパンドレウの息子。ギリシャの政界ではパパンドレウ家、ヴェニゼロス家、カラマンリス家など、一部の名家が大きな影響力を持っている。
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しかし、この財政赤字は何もNDによって築かれたものではありません。そもそもユーロ導入の際に「1パーセント」と報告されていた財政赤字さえも粉飾決算だったのであり、その時政権を担っていたのはPASOKでした。さらにいえば、ギリシャが慢性的な財政赤字に陥ったのは、1981年にPASOKが政権を握って以降、ひたすら借金をして個人消費の刺激策を行い、国営企業を支援、手厚い社会保障・年金制度を整備したためでした。

ギリシャの財政収支(2004-2014)
ギリシャ政府は、米国の大手投資銀行ゴールドマン・サックスに多額の手数料を支払い、虚偽数値の操作方法を教授してもらったといわれている。
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PASOKは自党に投票してくれる有権者に、公的機関や国営企業における職をあっせんしており、ピーク時には国民の4~5人に1人が公務員や国営企業職員だったされています。この「パトロン・クライアント関係」により、公務員はバカらしいほど手厚い手当をもらい、早期退職して年金を受給し、国営企業は非効率で常に赤字という状態が放置され続けてきたのです。さらに、国民全体に脱税文化が浸透していたことも、財政収支のアンバランス化に拍車をかけました。

ギリシャ鉄道(OSE)
ギリシャの国営鉄道会社。国鉄職員には手を洗うだけでひと月に420ユーロが支払われる「手洗い手当」なるものが存在した。危機以前のギリシャの公務員には、このような意味不明な手当てが無数に支給されていた。
CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=34884418

3.ユーロ危機への発展

ギリシャがデフォルト(債務不履行)に陥ると、ギリシャ国債の4分の3を保有している西欧の大銀行は大損失を被り、その補填のために、同じく大規模購入していたスペイン国債を大規模に売り出すしかなくなります。そうすると今度はギリシャよりも経済規模の大きいスペインが打撃を被り、そこから連鎖的にEU圏全体へ、さらには世界全体へと影響を及ぼし、世界的金融危機をもたらす可能性がありました。

EU各国の財政赤字と政府債務(2009年)
各国の上段は年間赤字、下段は政府債務(どちらもGDP比)。2007年から始まるリーマン・ショックの影響により、EU各国はどこもすでに財政赤字を膨らませていた。
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しかし、ギリシャの財政問題にどう対処するか、EU諸国の中では意見がまとまりませんでした。EU運営条約には「非救済条項」というものがあり、加盟国の財政赤字に対し、他の加盟国は支援を行わないとされていたからです。特にこの制度を設計したドイツはギリシャへの支援に強硬に反対し、ギリシャにユーロ離脱を要求しさえしました。

ヴォルフガング・ショイブレ(1942-)
ユーロ危機当時のドイツの財務大臣。ギリシャがEUに虚偽の財政状況を報告していたことがわかると、ユーロ圏財務相会合において、ギリシャのユーロ離脱を主張した。
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2010年4月、金融市場はついに限界に対し、金融パニックが発生しました。ユーロはドルや円などの主要通貨に対し暴落し、さらには米国や日本の株価さえも急落し始めました。米国政府はドイツへ金融パニックの鎮静化を要請し、同年5月にようやく危機対策が取り決められました。

PIGS諸国
ギリシャから始まった金融パニックは欧州全体に波及し、アイルランド、ポルトガル、スペイン、そしてイタリアが連鎖的に財政危機に見舞われた。これらの国を総称し「PIGS」(あるいは「PIIGS」)と呼ぶ。
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4.トロイカの支援と経済崩壊

ギリシャへの支援は欧州委員会欧州中央銀行ECB)、国際通貨基金IMF)の三者、通称トロイカがグループとなって実施することとなりました。トロイカは合計1100億ユーロを支援する代わりに、ギリシャ政府は2014年までに財政赤字をGDP比3パーセント以下にするための財政緊縮に加え、国営企業の民営化などの構造改革を要求しました。トロイカは財政赤字改善だけでなく、ギリシャの経済を国公営企業依存から脱却させ、近代的な自由主義経済へと転換させようとしたのです。

メルケル独首相とサルコジ仏大統領
ユーロ危機は、当初EUの中核である独仏両首脳(通称「メルコジ」)が密着して対応したが、2011年末から行き詰まり、その後はECBが危機対策の最前線に立つようになる。
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ギリシャ政府はトロイカの要請に応え、公務員給与の引き下げボーナスの廃止公務員の削減付加価値税(消費税に相当)・たばこ税・酒税などの税率引き上げ年金・社会保障の削減などの緊縮政策を行いました。しかし、公務員労働組合はこれらの政策に猛反発し、ストやデモが頻発しました。このため、構造改革に関する法律が議会を通過しても、様々な抵抗に合い実施されないことが多く、改革は思うように進みませんでした。

国会議事堂前に集結した、緊縮政策に反対する群衆
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また、緊縮政策はギリシャ経済に負の影響をもたらしました。賃金の引き下げと社会保障削減は労働者の所得減少をもたらし、所得が減少したことで国内消費が収縮、それによって収益が減った企業は生産と雇用を削減したのです。このため、2009年から2014年にかけてギリシャのGDPは20パーセント以上も落ち込み失業率は28パーセント(25歳未満に限ればなんと69パーセント!)にも達しました。トロイカの支援は失敗し、ギリシャの政府債務はかえって増加することになりました。

ギリシャのGDPの変遷(1995-2022)
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5.ギリシャの反乱

ギリシャ国民は、緊縮政策・構造改革を押し付けるトロイカ、トロイカの言いなりとなって経済崩壊をもたらしたギリシャ政府に対して怒りを募らせました。2015年1月の総選挙では、長い間政権を担ってきたPASOK・ND両党が見切りをつけられ、「反緊縮」、「反構造改革」、「EUとの再交渉」を掲げた急進左派連合(SYRIZA)が第一党と躍り出、40歳の若き党首アレクシス・ツィプラスが首相に就任します。世襲議員が幅を利かせるギリシャ政界において、庶民出身者が指導者となるのはまさに異例の事態でした。

アレクシス・ツィプラス(1974-)
SYRIZA党首。学生運動の名門であるアテネ工科大学出身で、共産党青年部に所属していたこともある生粋の左翼。尊敬する人物はチェ・ゲバラ。
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ツィプラス首相はさっそくEU各国に対し、大幅な債務削減を求める交渉を開始しました。しかし、ドイツを中心に中欧・北欧諸国はギリシャの要求を退け、従来通りの緊縮持続、さもなければギリシャのユーロ離脱を迫りました。一方、フランス、イタリア、そしてキプロスはギリシャを支持し、特にフランスは、ギリシャがEUからの資金援助を受ける書類作成のために政府職員を派遣するなど、ギリシャの支援要請に大きく貢献しました。

ツィプラス首相とオランド仏大統領
ドイツに追随したサルコジ前大統領と異なり、オランド大統領はギリシャ寄りの姿勢を示し、ドイツとの仲介役に奔走した。
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交渉はこじれ、半年以上もの間まとまらず、IMFとECBに対する合計約80億ユーロの返済期限が迫り、ギリシャは再びデフォルトの危機に陥ります。長い交渉の末、同年7月12日、ようやく800億ユーロの支援が決定しましたが、ツィプラス首相はその代償として、緊縮を受け入れざるを得ませんでした。公約を破ることになったツィプラスでしたが、「自殺の代わりに生き延びる選択をした」と国民にその理由を説明しました。

ツィプラス首相とメルケル独首相
7月12日のEU圏首脳会議は17時間にも及び、メルケルは厳しい条件をつきつけ、最終的にツィプラスをねじ伏せた。
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6.まとめ

ここまで読み進めた皆さんは、「財政赤字を隠ぺいし、税金を納めず、その上緊縮に反対し、債務を減免しようとするギリシャ人は、なんていい加減で、怠惰で、自己中心的な連中なんだ」と思ったかもしれません。ユーロ危機の引き金となったのは、もちろんギリシャが財政赤字を膨らませてきたことにあるわけですが、問題はそれだけではありません。

まず、ユーロの制度的問題です。EU運営条約には、加盟国を他の加盟国が支援しないという「非救済条項」の存在し、危機が発生した際の支援制度が一切ありませんでした。こうしたユーロの制度的欠陥によって、ユーロ危機は長期化・激化したのです。

次に、トロイカの支援の問題です。トロイカのギリシャ支援は緊縮政策と引き換えになっており、そのあまりにも厳しい条件のためにギリシャ経済は低迷し、状況はかえって悪化してしまいました。トロイカが経済成長を優先させる支援を行っていたら、ギリシャはもっと早く立ち直っていたでしょう。

そして、西欧の大銀行の問題です。ギリシャ国債の4分の3は西欧の大銀行が購入していましたが、その彼ら自身がギリシャが借金まみれになっていることを知らなかったわけがありません。目先の利益のために、金を貸し続けた大銀行はギリシャの共犯といっても過言ではないでしょう。

最後に、ギリシャ支援に強硬に反対し続けたドイツの問題です。ドイツは「非救済条項」を盾にギリシャへの支援に反対し、代わりにギリシャのユーロ離脱を突きつけました。ドイツのこうした姿勢を、トマ・ピケティをはじめとする著名な経済学者は「ギリシャ政府に対し、自らこめかみに拳銃をつきつけ、発砲するように求めているようなものだ」と痛烈に批判しました。また、そもそもユーロ制度を設計したのはドイツであり、先ほどのユーロの制度的欠陥もドイツの責任であるといえます。

以上のように、ユーロ危機は様々な問題が積み重なって起きた出来事であり、ギリシャ一国が悪者扱いされるようなものではないのです。なお、ギリシャはその後も財政再建を着実に進め、現在ではユーロ圏平均を超える経済成長率を見せるまでに回復しています。バブル崩壊後、30年以上も経済の低成長に甘んじている日本は、いつまでもギリシャを笑っていられないのではないでしょうか。

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全14回にわたって近現代ギリシャの歴史をまとめてきました。ギリシャといえばギリシャ神話やソクラテス、ペルシャ戦争といった古代ギリシャのイメージしかなく、「そもそも現代のギリシャはどうやって形成されたのか?」という疑問からはじめたのが、今回の連載でした。僕の記事をきっかけに、ギリシャについて関心を持つ人が少しでも増えてくれればいいなと思います。

今年の連載はこれにて終了です。年末にかけて単発記事を予定していますので、これからもよろしくお願いします!

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

主な参考


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