【日露関係史8】日露同盟の成立
こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第8回目です。
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満州と朝鮮をめぐる対立から、日本とロシアは戦争へと至りました。しかし、戦後は一転して両国は急接近し、国交樹立から現在に至るまでの間で最も友好的だった時代が訪れます。今回は日露戦争後から約10年間続くことになる日本とロシアの「例外的な友好の時代」について見ていきたいと思います。
1.日露協約の締結
日露戦争開戦と共に断交していた日本とロシアの国交は、1906年2月に回復しました。しかし、日露双方において、ポーツマス条約は一時休戦に過ぎず、相手が復讐戦争をしかけてくるのではないかという疑念は残り続け、友好関係を取り戻したわけではありませんでした。また、通商航海条約や漁業問題など、ポーツマス条約では定めきれなかった具体的な細目協定についての交渉も中々進展しませんでした。
しかし、ロシアの外交政策は、新任の外務大臣アレクサンドル・イズヴォリスキーによって転換します。イズヴォリスキーは敗戦国ロシアが国力を回復させるためには、10年間の「外交の息継ぎ」が必要だと考えました。そのためには、これまで中央アジアで覇権を争っていたイギリス、そしてイギリスの同盟国である日本との関係強化が不可欠でした。
一方日本側も、日露関係改善のために知露派として知られる本野一郎を駐露公使として派遣しました。伊藤博文や山県有朋は、朝鮮半島への勢力拡大のために、ロシアと協商を結ぶ必要があると考えたのです。交渉の結果、1907年7月30日、サンクト・ペテルブルクにおいて第一次日露協約が調印されました。この協約の秘密条項では極東における日露の勢力圏が定められ、朝鮮半島全体は日本、外モンゴル全体はロシア、そして満州は両国で分割され、南半分が日本、北半分がロシアの覇権下に置かれることとなりました。
2.後藤新平と満州鉄道
互いの勢力圏が確定したことで、日本とロシアは急速に接近していきます。その基軸となったのが、満州鉄道でした。ポーツマス条約によって、日本はロシアから長春から旅順に至る東清鉄道の支線を譲渡されます。戦後、この鉄道は南満州鉄道株式会社によって経営されることが決定され、その総裁には、台湾で民政局長を務めた後藤新平が就任しました。
後藤は、満鉄を単なる中国のローカル線ではなく、シベリア鉄道と接続し、ヨーロッパへと至る「世界交通の大動脈」にする構想を練っていました。鉄道事業における協力を得るために、1908年4月にはロシアを訪れてニコライ2世に謁見し、さらに大蔵大臣ウラジーミル・ココフツォフらロシア政界の大物とコネクションを築きました。さらに、中東鉄道の実質的な経営トップであるアレクサンドル・ヴェンツェリとも協議し、満鉄列車がハルビンー長春間の路線を使用する許可を得ました。
帰国後、後藤は桂太郎内閣の遁信大臣に就任して満鉄を離れますが、その後も満鉄と日露の問題に関わり続けました。1909年には日露提携強化のため、ロシア極東を視察に訪れたココフツォフ蔵相を伊藤博文と会談の約束を取り付けました。しかし、会談の当日、ハルビン駅に到着した伊藤は独立運動家の朝鮮人安重根によって暗殺されてしまいます。後藤は伊藤をハルビンに向かわせたことを後悔し、後に「伊藤公をハルビン駅で殺したのは、この後藤に外ならぬのだ」と述べています
3.日露による東アジア分割
事件のショックから立ち直った後藤は、マレフスキー=マレーヴィチ駐日大使に鉄道に関する経済的・政治的提案を行い、桂太郎首相を売り込むなど、伊藤亡き後の日露関係の強化に尽力しました。そのかいもあって、1910年7月には第二次日露協約が調印されます。日本はこの協約の調印後に韓国併合を行うことをロシアに知らせており、翌月に実行されます。韓国側はそれまで独立維持を支持してきたロシアに助けを求めますが、すでに日本と勢力圏を分けていたロシアからは何の返答もありませんでした。
1911年、中国では辛亥革命が勃発し、南京に中華民国政府が樹立、翌12年には宣統帝が退位し、清国は滅亡します。日露両国はこの混乱に乗じ、中国での権益を拡大・強化しようと目論みます。同年7月、第三次日露協約が結ばれ、内モンゴルにおける両国の勢力範囲が定められました。
この協約は西園寺公望内閣の内田康哉外相が主導したものでしたが、締結の直後に西園寺のライバルであった桂太郎が後藤と共にロシアを訪れています。その目的は満州についてロシアと協議をするためであり、桂はココフツォフ蔵相とセルゲイ・サゾーノフ外相に会談し、中国が無政府状態に陥った場合、日露両国によって満州を占領することを取り決めました。
4.最後の皇室外交
日露のさらなる接近をもたらしたのが、1914年の第一次世界大戦の勃発でした。イギリスと同盟を結んでいた日本は連合国側に立ったため、後藤や山県は同じ陣営に属すロシアとの同盟を求めるようになります。一方のロシアでも、戦争が長期化するにつれ武器・弾薬が不足し始めたため、日本からの軍事援助に対する期待が高まりました。
1915年12月、ニコライ2世は侍従武官ゲオルギー・ミハイロヴィチ大公を日本に派遣します。大公の訪日の目的は、大正天皇の即位に対する祝賀の伝達と開戦以来の援助に対する謝意の表明にありましたが、真の狙いは、日本からさらなる軍事援助を引き出すことにありました。大公に随行したグリゴリー・コザコーフ極東局長がこの交渉にあたり、第四次日露協約が締結します。
1916年6月末、大公訪日の答礼として、日露協会総裁兼日本赤十字社総裁である閑院宮載仁親王がロシアを訪問することになりました。答礼使節は各地で地元住民からの大歓迎を受けながらシベリア鉄道を西へと進み、9月26日にロシアの大本営が置かれたモギリョフに到着、ニコライ2世に謁見しました。皇帝から感謝の言葉を受けた後、一行はペトログラードへと移動し、皇后アレクサンドラに対面し、盛大な午餐会に招かれるなど、盛大な歓迎を受けました。
5.日露同盟とその崩壊
1915年末までに、日本はロシアへ45万丁以上のライフル銃を供給していましたが、第四次協約では、さらに12~15万丁が提供されることが約束されました。また、今回の協約の秘密条項では、日露一方が「第三国」から攻撃を受けた場合、もう一方の国が助ける参戦義務が書かれていました。第四次協約は、事実上の軍事同盟条約だったのです。
一方、ロシアが軍事援助の見返りとしたのが、長春から松花江までの東清鉄道南支線の譲渡でした。これに関しては、東清鉄道当局及び財務省から大きな反発がありましたが、コザコーフは日本に軍事協力を義務付けるには、鉄道譲渡という「善意」を示す必要があると考えたのです。悲願の同盟成立、鉄道問題解決に、後藤や山県は大喜びしました。
しかし、日露同盟の効力は極めて短いものでした。1917年3月8日(露暦:2月23日)、ペトログラードで革命が勃発し、ニコライ2世は退位、ロシア帝国は崩壊してしまいます。跡を受け継いだ臨時政府は協約を破棄しなかったものの、中東鉄道譲渡に関しては難色を示しました。さらに、同年11月7日(露暦10月25日)に成立したソヴィエト政権は、日露協約の秘密条項を暴露、さらに翌年にはドイツと単独講和を結んでしまいます。こうして、現代に至るまで唯一結ばれた日露の同盟は、あえなく崩壊してしまったのです。
6.まとめ
最後に、こうした日露の友好ムードの裏側について触れたいと思います。皇帝ニコライ2世は、日露の友好を積極的に進めた人物ではありますが、日露戦争で負った心の傷が完全に癒えたわけではなかったようです。例えば、1912年に明治天皇が崩御した際、英独西など各国が君主の名代で大物特使を大喪儀に派遣する中、ロシアは駐日大使を参列させただけでした。また、1913年に日露戦争当時の首相であった桂太郎が亡くなった際には、ロシア政府は弔意を示すことさえありませんでした。さらに、ロシアの文武高官や皇族の中には、日本との同盟に疑念を抱く人物も多く、載仁親王が訪露した際も歓待したゲオルギー大公は終始退屈そうで、皇帝の従甥にあたるニコライ大公に至っては、親王の歓迎行事を「ユダの接吻」になぞられ、「日本人の接吻」と皮肉っています。
このようにロシア人全員が日本を受け入れたわけではありませんでした。これはもちろん、日本においても同じことがいえます。両国の接近は、あくまで極東における勢力範囲が画定したことで可能となった打算的なものだったとみるべきでしょう。しかし、打算的とはいえ、日露が手を携えていた時代もあったのです。第6回でも書きましたが、こうした日露友好の歴史も最も知られて良いのではないかと思います。
最期までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
明治維新から太平洋戦争までの日露関係史については、こちら
ニコライ2世については、こちら
ロシア帝国時代の日露交流全般については、こちら
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