【ビザンツ帝国の歴史10】アレクシオス1世の戦いの日々
こんにちは、ニコライです。今回は【ビザンツ帝国の歴史】の第10回目です!
前回の記事では、最盛期を迎えた11世紀のビザンツ帝国とその絶頂からの急落についてまとめました。マンツィケルトの戦いでの敗北後も国境地帯の動揺は止まらず、属州各地では反乱や離反が相次ぎ、帝国は存亡の機にありました。しかし、7世紀の危機のときと同様に、今回も優秀な軍人皇帝の登場により帝国は生き延びることになります。今回は、その生涯を帝国再建に費やしたアレクシオス1世と彼の戦いの日々について見ていきたいと思います。
1.アレクシオス・コムネノスの登場
1078年、反乱軍を率いて帝都に到着した将軍ニケフォロス・ボタネイアテスが、ニケフォロス3世として皇帝に即位します。しかし、新帝即位後もバルカン半島、小アジア双方での反乱は続き、さらにトルコ人が帝都対岸のニケーアを獲得し、イタリア半島のノルマン人たちがバルカン上陸を狙うなど、危機的状況に変化はありませんでした。ビザンツ帝国はまさに内憂外患に苦しみ、末期的状態にありました。当時の歴史家の言葉を借りれば、「帝国は息を引き取ろうと」していました。
こうした中登場したのが、名門コムネノス家出身のアレクシオスです。当時20歳過ぎのこの青年将軍は、アドリアノープルで反乱を起こしていた老将ニケフォロス・ブリュエンニオスを打ち破り、さらに、そのまま新たに蜂起したニケフォロス・バシラキオスを討伐するなど、功績をあげていきます。しかし、彼の軍隊は敗残兵の寄せ集め部隊であり、装備も不十分でありながらも度重なる出陣命令を受けたことから、次第に皇帝に対する不満を募らせていきました。
1081年、アレクシオスはニケフォロス・メリセノスの反乱鎮圧を命じられますが、彼はこれを拒否して自らが反乱を企てました。兄イサキオスと義理の祖父ヨハネス・ドゥーカスを仲間に迎え入れた反乱軍は、帝都へと突入します。総主教の説得もありニケフォロス3世は退位し、新皇帝にアレクシオスが即位しました。
2.第一次ノルマン戦役
アレクシオス1世は生涯戦いに明け暮れる日々を送ることになります。最初の相手は、新皇帝誕生の1か月後にバルカン半島への侵攻を開始した、ロベール・ギスカール率いるノルマン人たちです。彼らはコルフ島とその対岸ブトリントを占領し、6月には帝国の西の玄関口であるデュラキオンを包囲しました。
アレクシオスはノルマン人討伐のために西方へと出征します。皇帝の軍隊はノルマン人による征服のために亡命していたアングロ・サクソン人、小アジアから雇い入れたトルコ人、ヴァリャーグ親衛隊、セルビア人などの混成部隊でした。しかし、ノルマン軍には歯が立たず、10月18日の会戦では惨敗を喫します。ノルマン人たちはデュラキオンを陥落させ、帝都コンスタンティノープルを目指し進撃しました。
正面からの戦いでは敵わないことを悟ったアレクシオスは、外交戦術に乗り出します。まず接触したのが、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世です。当時ギスカールが忠誠を誓うローマ教皇と神聖ローマ皇帝は対立関係にあり、これを利用してノルマン人の根拠地である南イタリアを叩こうとしたのです。1082年、大金の贈与を約束されたハインリヒがイタリアへと侵攻したため、ギスカールは帰国を余儀なくされました。
より効果的だったのは、ヴェネツィアとの同盟です。アレクシオスはヴェネツィアに帝国全土での免税特権を付与することを条件に、海軍の提供を要請しました。南イタリアからアドリア海を渡って物資や人員を運搬するノルマン軍の艦隊は、ことごとくヴェネツィア海軍による妨害を受けることになりました。
1085年、前線に戻っていたギスカールは疫病に倒れ死亡しました。ノルマン人たちの本隊は撤退を開始し、残った将校たちもアレクシオスに次々と打ち破られ、ノルマン人たちが占領した地域は再び帝国の支配下に戻りました。
3.十字軍の到来
1091年にはペチェネグ人に、1094年にはセルビア人に勝利してバルカン半島を平定したアレクシオスは、今度は小アジアの失地回復に乗り出します。しかし、トルコ人と戦うにはビザンツ軍は兵力不足であったため、皇帝はローマ教皇を通じて西欧諸国に援軍を要請しました。ところが、これが思わぬ反応を引き起こすことになります。
皇帝の使節がローマを訪れた翌1096年、アレクシオスのもとにラテン人の大部隊が東方へ進軍しているという報せが届きました。しかも、彼らの目的は「聖地イェルサレムの奪還」だというのです。これがのちに「十字軍」と呼ばれる大遠征の始まりです。
このときコンスタンティノープルに集結したのは、隠者ピエール率いる民衆十字軍、ヴェルマンドワ伯、下ロレーヌ公、フランドル伯、ノルマンディー公、ブロワ伯などが率いる各軍隊、そして十字軍の本隊ともいえるトゥールーズ伯レーモン・ド・サン・ジルと教皇特使ル・ピュイ司教アデマールなど数万人の軍勢でした。このときの様子を、アレクシオスの娘アンナは「アドリア海からジブラルタル海峡にいたるすべてのバルバロイ(蛮族)がやってきた」と記録しています。
4.ビザンツと十字軍の確執
十字軍の到来は、アレクシオスにとって全く予想外の出来事でした。彼の狙いはあくまで失地回復であり、聖地奪還を目指す十字軍は狂信的な田舎者集団にしか見えませんでした。さらに、10年前に戦火を交えたギスカールの息子ボエモンドが参加していることも、十字軍に対する不信感を高めました。
アレクシオスは十字軍とのトラブルを避けるために、彼らを歓迎し、食糧を与えるなど丁重に扱いをしつつ、奪還した旧ビザンツ領は帝国へ返還することを約束させました。皇帝は悲惨な結果が目に見える聖地への同行は断りつつ、十字軍から最大限の利益を引き出そうとしたのです。1097年には十字軍が攻略したニケーアを取り戻し、十字軍がさらに東方へ進んでいる間にスミュルナなどのエーゲ海沿岸部を回復しました。
しかし、勇敢に戦わないビザンツ人に対して、十字軍は不信感を募らせていました。両者の対立が決定的となるが、1097年10月から1年以上にわたって行われたアンティオキア包囲戦においてです。十字軍兵士たちは飢餓状態に陥りながらも戦い続けましたが、ビザンツ軍は奪還は無理だと諦めて途中で撤退し、救援に向かっていたアレクシオスも軍隊を引き揚げてしまったのです。1年以上に渡る包囲戦の末、十字軍はアンティオキアを占領しますが、約束を反故にして帝国へは返還せず、アンティオキア侯国を樹立しました。
5.宿敵ボエモンドとの決着
東方の大都市アンティオキアが奪われたことにアレクシオスは抗議し、トルコ人と同盟して攻撃を仕掛けますが、結局彼らを追い出すことはできませんでした。アンティオキア候となっていたギスカールの息子ボエモンドは、この報復に出ました。1104年、彼は密かに南イタリアへと帰還し、「裏切者ギリシャ人」を討伐するための兵を集めました。ローマ教皇にもギリシャ人は分離宗派であると訴え、遠征のお墨付きをもらいました。
1107年10月、ボエモンドはアドリア海を渡ってビザンツ帝国へと攻め込みます。今回もデュラキオンを包囲しますが、すっかり立ち直っていた都市の防備に、ボエモンド軍は歯が立ちませんでした。さらに、攻略が遅れているところに、アレクシオス率いる主力部隊が迫っていました。
1108年、追い込まれたボエモンドはアレクシオスに降伏し、ディアボリス条約を締結します。これはボエモンドがアレクシオスに忠誠を誓い、爵位を受け取ってアンティオキアを封土とするというものでした。親子二代にわたってビザンツ帝国に攻め込んだノルマン人は、ビザンツ帝国に臣従を余儀なくされたのです。
6.まとめ
1118年8月15日、病に伏していたアレクシオスは亡くなり、その37年間の治世は終わりました。リューマチに苦しみながらも亡くなる2年前まで出征し続けており、彼の度重なる戦争によって、帝国は存亡の機から立ち直ることができました。
ヴェネツィアとの同盟や十字軍の到来からわかるように、これ以降のビザンツ帝国は西欧と深い関係を持つようになります。これは外国人傭兵部隊の主力を、スカンディナビアやノルマンディー、イングランド、フランドル出身のラテン人が占めるようになったことからも明らかです。さらにいえば、アレクシオスが帝位を簒奪する際にその帝都突入を手助けしたのも、ドイツ人の衛兵たちでした。彼らは帝国の存続と再建に大きく貢献しましたが、十字軍とは最終的に対立するようになったように、敵にもなりえる存在でした。以後100年間、ビザンツ帝国は獅子身中の虫ともいうべきラテン人たちとともに歩んでいくことになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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