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ロシア・ウクライナ・ベラルーシの国名の由来

1.はじめに

国の名前には、それぞれ由来があります。アメリカのように人名が由来だったり、中国のように民族意識の反映だったり、あるいは、日本のように地理から取られたりと、国によって様々です。今回は、同じ東スラヴ系のロシア、ウクライナ、ベラルーシの三国の国名の由来を見ていきたいと思います。

2.ロシアの由来~ノルマン説VS反ノルマン説~

ロシア、ウクライナ、ベラルーシの地は、もともとルーシと呼ばれていました。それが「ルーシア」と変化し、16世紀初頭には「ロシア」となってモスクワ大公国のことを指すようになり、イヴァン4世の時代に国名として定着しました。

では、このルーシの由来はなんでしょうか。通説では、ルーシとは、ロシア人の祖先である東スラヴ人たちを支配下においた、ノルマン人のことを指します。9世紀ごろ、東スラヴ人たちは諸氏族の紛争が絶えず、自分たちを統治する君主を求めていました。そこで、当時スカンディナヴィアからヨーロッパ各地に進出していたノルマン人を招いて君主とした、と伝えられています。この時招かれたノルマン人たちをルーシといい、そこから国名が付けられました。これを「ノルマン説」といいます。

ノヴゴロド公リューリク(?-879)
東スラヴ人に請われ、最初のルーシの君主となった。
ただし、彼も年代記に登場するのみで、その存在について考古学的証拠などはない

しかし、このノルマン説は、当のロシアでは激しい批判にさらされました。ロシアを建国したのが外国人であるという説明は、とうてい受け入れられないものだったからです。ロシア帝国やソ連の歴史学者たちは、ルーシは南ロシアに住むスラヴ人であったとする「反ノルマン説」を主張しており、この場合は、ロシアの由来は彼らの民族名ということになります。

ゲルハルト・ミュラー(1705-1783)
ロシア帝国アカデミーのお雇いドイツ人で、ノルマン説を最初に発表した歴史家。
しかし、ノルマン説はロシア人の怒りを買い、彼は講演中に壇上から引きずり降ろされ、シベリアへと流刑になった

現在では、ノルマン人たちがロシアの平原地帯や、黒海、ギリシャ方面に進出していたのは否定できない事実であると考えられており、ノルマン説のほうが優勢となっています。

3.ウクライナの由来~様々に変わるその解釈~

「ウクライナ」とは、もともとスラヴ語で「切る」や「分かつ」を意味する「クライ」に由来すると考えられています。現代ウクライナ語でも、「分かつ」は「ウクラーヤティ」といいます。

「ウクライナ」の語が登場する最古の文献は、ルーシの歴史を著した『原初年代記』です。この中では、12世紀~13世紀ごろの、ペレヤスラフやハーリチ、西ヴォルイニ地方の諸都市など、キエフ大公国に属する諸公国・諸都市に対し、「ウクライナ」という呼称が用いられています。この頃のキエフ大公国は地方の諸公国に分裂する傾向にあり、それらの諸公国を「ウクラーヤナ・ゼムリャー(分かたれた土地)」と呼ぶようになり、これが「ウクライナ」に転じたのではないか、と考えられます。

1054年のキエフ大公国。
地方を治める諸公が世襲化した結果、キエフ大公国は十数の諸公国の連合体へと変貌する
By SeikoEn - Own work, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12573422

16世紀以降、コサックたちが台頭してくると、「ウクライナ」とはコサックたちの自治国家(ヘトマン国家)の領域を指すようになります。コサックの指導者だったサハイダーチヌイは、ポーランド王宛ての手紙の中で、「ウクライナは我らの祖国」、「ウクライナの諸都市」、「ウクライナの民」などと表現しており、ここで「ウクライナ」は国号としての意味を帯びるようになります。

ペトロ・サハイダーチヌイ(1570-1622)
ウクライナ史上最も重要なコサックの首領(ヘトマン)の一人。
モンゴル侵攻後、数百年にわたり荒廃していたキエフを再建し、正教の保護と振興に努め、コサックにウクライナ人としての民族意識を目覚めさせた

しかし、17世紀半ばに、ヘトマン国家がロシア帝国の統治下となると、ウクライナの地は「小ロシア」と呼ばれるようになり、公式の場で「ウクライナ」という名称が使用されることはありませんでした。こうした中、ウクライナ独立を目指す民族主義者たちは、コサックの栄光の歴史と国家の独立が結びつけた言葉として、「ウクライナ」という呼称を使用するようになりました。ウクライナが正式な国号として使用されるようになるには、1917年のロシア革命を待たなければなりませんでした。

4.ベラルーシの由来~「白ロシア」とは何か~

ベラルーシ」とは、「白いロシア」を意味しますが、ここでいう「白」とは何の意味するのかは、様々な説があります。「白ロシア」が現在のベラルーシを指すようになるのは、ようやく17世紀になってからであり、それ以前には、ウクライナモスクワ大公国を意味する言葉としても使われていました。さらに、15世紀以降には、「白ロシア」と並んで「赤ロシア」と「黒ロシア」という呼称も使用され、文献によって、どの呼称がどの地域を指すのかがバラバラでした。以下、「白ロシア」の意味するところについて、3つの説を紹介したいと思います。

ヴェネツィアの修道士フラ・マウロの作成した15世紀の地図
現実の地形とかけ離れており大変わかりにくいが、左下に「ROSSIA BIANCHA(白ロシア)」、中央に「ROSSIA NEGRA(黒ロシア)」、右上に「ROSSIA ROSSA(赤ロシア)」の文字が描かれている

1つ目は、テュルク語からの影響であるとする説です。テュルク語では、「白」と「黒」は「解放され、自由な」という意味と「支配下にある、隷属した」という対立した意味を持っており、独立国であるモスクワ大公国を「白ロシア」、リトアニア領にあった地域を「黒ロシア」と呼んだ、とするものです。

2つ目は、モンゴルの影響とする説です。この説では、1380年のクリコヴォの戦いでモンゴル軍を打ち破ったモスクワ大公が、自らを「白帳ハン(キプチャク・ハン国のこと)」の後継者と見なして「白帝」を名乗り、それが国にもつけられるようになった、とされています。

そして、3つ目は、中国の色彩方位観の影響とするものです。中国では方角を色で表しており、北を黒、東を青、南を赤、西を白としていました。モンゴルによってこの風習が持ち込まれ、北部のモスクワが黒、西部のリトアニア領は白(現ベラルーシ)、南部のポーランド領は赤(現ウクライナ)と呼ばれるようになった、ということです。

どの説も、決定打はありませんが、いずれも外的要因が考えられること、そして、「白ロシア」の呼称が、当地の人々の自称ではなく、ポーランドやハンガリーなど隣国からの他称であったことからも、当時の国際関係と深いかかわりをもった名前であった、といえます。

5.まとめ

以上のように、国名の由来は三者三様ですが、共通していることは、各国も自分たちの都合の良いように、その由来を解釈したがる、ということかと思います。

例えば、ウクライナの由来はスラヴ語の「クライ(分かつ)」と述べましたが、「クライ」には、「分かつ」から転じて「端」「境界」「辺境」という意味もあり、ロシアでは長らく「ウクライナ」は「辺境地帯」の意味であるという説が支配的でした。一方で、ウクライナの方では、ロシア人とは元を辿ればフィン系で、民族も言語もルーシとは全然別である、という主張がされています。

このように国名は、ナショナリズムや民族問題に関わる要素が含まれており、どちらが正しい・間違っているという価値判断を急ぐのではなく、冷静に事実を積み上げていくことが重要ではないかと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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ロシア、ウクライナ、ベラルーシの起源となった、キエフ大公国については、こちら


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