医者が病院を去った後

私たちは誰もが舞台上を台本なしで動き回る感覚を経験している。

オウムアムアは地球人を見たか?異星文明との遭遇 アヴィ・ローブ

笑え。

バガボンド 井上雄彦

今の僕の生活は、医業としては週に数時間非常勤(いわゆるバイト)の仕事があるだけで、ほとんど自由時間です。
大半の時間は、物思いに耽ったり、運動と読書と勉強と散歩しながら、人生のパートナーである鳥と過ごしています。
この生活になってから2年になります。

医者が病院を辞めた後①〜⑩でお話ししてきたのは、広い世界を目の前にした認識の変化についてでした。

今回お話しするのは、病院を辞めた後、何を目指すのかを見失ったり、時間がありすぎて退屈な日々を過ごすことはない、ということです。

病院の中では、人間が定義した仕事、目標、成果、時間、変化、情報、行動、序列、場所によって成り立っていました。
そこでは、一定で、均質で、予測可能で、秩序があり、具体的で、はっきりしたものばかりで、何よりつつがなく安心でした。

病院という単純な世界では、朝、決まった時刻に来て、患者を捌く流れ作業をこなし、気がつくと昼食で、就業時間になっており、仕事が全部終わっている。
一人一人対応が違うはずの患者に対しても、パッケージ化され、箇条書きで、ゲームのように淡々と診断や治療のフローチャートをこなしていくことが求められます。
何をすれば評価が上がり、誰と仲良くすれば益があるのかもわかっています。

複雑な世界では、人間が定義したものは暫定的です。すぐ覆るかもしれません。
確かなことは何もなく、常に変化し、時間の流れも変わります。
超大量の要素がひしめき合い、行動も無数の正解があります。立場の序列もありません。

この世界では、
自分が無力で、小さく、限られた情報量しかない存在であることに気づいたり、
単純な世界の人々が、地球という小さな箱庭で動き回る小さな生物に見えてきたり、
人生の短さに戸惑って立ち尽くしたりするでしょう。

ランダム性が強く、名声も、成果も、報酬も何一つ確かなことはありません。
常にアップデートに迫られ、誰からも学ぶ必要性が出てきます。
明日人生の終わりが来ることもあるでしょう。
未来の予測なんて戯言です。
退屈なんてありません。

患者の体調不良の裏側には、金銭事情、人間関係、今までサボってきたダイエット、将来の漠然とした不安など、たくさんの隠された理由があるかもしれないですが、我々はどんなに助けたくても、すべてを知ることすらできないんです。

患者からの情報は限られていて、自分の頭の中で想定していた病状や問題点は、いかに限られた発想であったかに気づきます。

では、どうすればいいでしょうか、途方に暮れるほど複雑な世界では、立ち尽くすだけでしょうか、それとも、もっと情報や知識、確固たる目的、行動、成果を求めていくべきなのでしょうか?あるいは、エビデンスが我々を混迷から解き放ってくれるのでしょうか?

いいえ、僕の意見は違います。
逆説的ですが、一つの答えは、人生を確かなものにしたい、正しさを追求したいというベースの意識から降りることかもしれません。

問題から降りることは、逃げるのではなく、問題を超えることです。

偶然を歓迎し、変化を楽しみ、子どものように興味を持ち続けて、笑って過ごすこと。

僕は、非典型的、意外な患者のケースについてはノートに全て記録していて、自分の考え違い、誤診も、当時の状況と共に記録しています。

癌だと思ったら違ったみたいな患者から、

長年の歩行習慣により見たことない足部のアライメント(骨の並び)の変形をしている患者、
主治医の勘違いで致死性の疾患から生還した患者など。

これらを積極的に、他の専門家に見せて、意見を伺うと、考え方のフレームワークが壊されます。

現象が生き物のように変化して(フォローアップもできるだけ記録してある)ノートから浮かび上がってくるかのようです。

典型的なものや、一定のもの、わかりやすいものから脱するところに、好奇心を次々発揮できるのです。

楽しければ何でもいい人生を。

やりたい放題、言いたい放題の人生を。

季節の移り変わりを背景にした走馬灯の帯に、出来事の連鎖を描き出し、同じところには返って来ずどんどん開いていく螺旋のような瑞々しい人生を。


ここまで読んでくれて、ありがとう。