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#25 【NPO法人にいまーる】 職員インタビュー vol.4|五十嵐依子

NPO法人にいまーるは、
• 聴こえる⼈と聴こえない⼈がお互いに⾼め合える場を作る
• 社会的少数派(マイノリティ)の⽣きづらさを解消する
• 聴覚障害者の社会資源を拡充する(ゆりかごから墓場まで)
を理念に、聴覚障害を持つ人の就労支援や生活支援,社会参加の支援,居場所づくりなどを行う団体であり、ろう者と聴者が一緒に働く職場です。

「NPOで働く」と言ってもピンとこない人も多くいるかもしれませんが、現在にいまーるでは多様なキャリア・バックグラウンドを持つ職員が就職してきており、またボランティアやアルバイトなども含めると多くの人が働く場所として集まる場所になってきています。

今回で4回目となる職員インタビュー。にいまーるの職員のキャリアや人間性を深掘っていきたいと思います。

にいまーるに限ったことではありませんが、創業当初は猫の手でも借りたいほど人材を集めることが難しいのが組織の常。

創業から10年以上経った今、にいまーるにもそれぞれ強い専門性を持つ職員が増えてきました。

今回はにいまーるの職員 五十嵐依子さんにお話を聞いていきます。

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■プロフィール
五十嵐依子(いからし・よりこ)

1989年生。聴者。公認心理師。臨床心理士。手話通訳士。
現在は就労継続支援B型 手楽来家(てらこや)で生活支援員として、利用者の日常生活上の支援や身体機能、生活能力の向上に向けた支援を行うほか、創作・生産活動などを担当している。

― これまでのキャリアを教えてください。

今までは大学でその教育学部で特別支援教育,聴覚障害教育っていうのを専門に学んできました。在学中に情報保障・講義保障をやるようになって、それがすごく楽しくて、大学にいる「障害学生支援の専門の職員さん達いいなあ」って思うようになり、そういう仕事したいと思っていたので、教員免許を取ったんですが教員にはなりませんでした。

全国の聴覚障害学生がいる大学を支援するネットワークの事務局っていうのが筑波技術大学にあって、卒業後はそこに入りました。
ただそこの事務局はどちらかと言うと、直接学生支援というよりは、組織作りとか体制作りを支援するコンサルテーションみたいな感じでした。

まあそれでも結構楽しく仕事をしていて、そこで4年勤めたんですけど、
3年目ぐらいから「もうちょっとその学生本人に関わりたいな」っていう気持ちがありました。その頃、少しずつ障害学生支援の職員っていうのがちょっと広まってきて、各大学でちょこちょこ求人出てたりしてたんですけど、「現場経験」と「資格」が必要だというところが多くて、その資格の中に臨床心理士を持っていることが要件に入ってるところが多かったんです。

まあ確かにコンサルテーションみたいなところにずっといて、あまりその本人の話を聞くというところに関して、確かに何のスキルも経験もなかったので、これはその資格を取るために勉強した方がいいのかなって思いました。そこで、どうせ環境が変わるんであれば地元に帰って行きたいなっていうのがあって、新潟に帰ってきて臨床心理士が取れる大学院に入ったっていうところです。大学院終わって、そのタイミングで多分ここに入る選択肢もあったんですけど、ちょっと色々考えてとりあえずその大学院に残って三年仕事して、昨年度からここに入ったっていう感じです。

― にいまーるに関わり出したきっかけは?

筑波をやめて新潟に帰るっていうのを大学時代のゼミの先生に報告したんですよね。「辞めます。新潟帰ります。」って話をした時に、「新潟だったらこういうとこあるよ」って臼井さんを紹介してくれて。忘れもしない東京駅のスタバで急に私と臼井さんで会って、その紹介してくれた先生はいなくて、みたいな感じで繋がったのが最初ですね。
それで、新潟にいるのであればボランティアとかそういう形で是非どうですか、って声をかけてもらって、にいまーると接点ができたっていう感じです。

― その時はここで働こうって感じではなかったんですか?

臨床心理士と公認心理師の資格を取る試験っていうのが大学院修了後の試験だったので、ちょっと勉強する時間が欲しいなっていう、それが大きいですかね。
それもあってすぐには入らず、でも臼井さんや他の職員の方から、バイトとして忘年会に呼んでいただいて、その都度「二年後ね」「来年ね」みたいな感じで言ってもらっていて(笑)そこはありがたいなと思って、時間が空いてから入ったって感じですね。

― いざ入ってどうですか?当初は現場で直接学生の支援がしたいっておっしゃっていたので、そことはまた違うと思うんですよ。その上で仕事をやってみてどうですか?

大学生に対して支援したいなって思ってたときは、見ていたのがそもそも基本的な学力がある人たちに対しての支援だったので、情報保障・講義保障もパソコンでする支援だけでした。私がやってたのは、文字がある程度分かる・日本語がある程度読める,分かるっていう人たちに支援していただけだったので、にいまーるに入ってみてそれじゃなかなか難しいなっていうか、人によっては文字書いても伝わらない方もいるし、手話の単語だけにこだわっても伝わらないしっていうのはあって、今までにないモードでコミュニケーションしないといけないなっていうのは感じました。

― 今やっている仕事の内容について教えてください。

今は生活支援員です。各曜日午前午後それぞれプログラムがあるので、そこの内容を考えたり、実際に回したり、っていうことをやってます。あとは利用者さんの健康面のチェックとかが多いかなと思います。あとは手話サロンひるかめのスタッフはこれがそれこそこっちに戻ってきたタイミングでやらせてもらったので、もう4年?ぐらいになります。年数だけはすごい経ってます(笑)

― 手話サロンひるかめはどんな感じで始まったんですか?

筑波から新潟に移って環境が変わったんですけど、大学院には聴覚障害の専門の先生もいないし、手話で話すっていうことが極端に減ってしまって。
前の職場は、職場にろうの人がいたりとか、一緒に事業をやる中にろうの先生がいらっしゃったりとか、結構手話を使う頻度が多かったんですけど、それが急になくなっちゃって、でも時間とか情報もなくて、手話続けたいけどどうしたらいいかわかんないなっていうときに、臼井さんと「そうなんだよな」みたいな話をしていて。じゃあ手話普及事業の中の一つでやろうと。

平日手話サークルに行けないとか、にいまーるを見に行きたいけどやっぱり平日じゃ無理とか、っていう人に土日休日ににいまーるや手話に触れてもらう機会を作ろうっていうので始まりました。

地域のサークル何回か行ったことあるんですけど、平日開催っていうところが多かったかなと思いますし、おじいちゃんおばあちゃんとか年齢層高いし、一つのイベントに向けて一緒にやってくみたいな感じで、そんなに週一ぐらいのペースで時間作れないんだよなとかっていうのもあったので、ゆるっと集まるところっていうコンセプトで「やりたいな」というのと「やってみたら」っていうのが合致したっていう感じです。

― 最後に今後の目標とか、実現したいこと

生活支援に関しては、、今考えているというか回しているプログラムがそんなに大きく変わっていくことは急にはないかなと思うんですけど、せっかく来てもらっているので、それzれのやりたいこと、知りたいことにちゃんと応えていくというか、そのための準備をしていくっていうことが必要かなとは思ってます。

ひるかめに関しては、ありがたいことにこれだけ続いていて、まあコロナで何回かお休みが続いても、再開したらまたそれなりに集まってくださっていて、再開するんだっていうことを楽しみにしていてくれる人たちがいるっていうのはすごく嬉しいなと思っています。

そんなに肩肘張った活動じゃないので、当初の目標が「行けば誰かいて手話で喋れる」っていうカチっと勉強して帰ろうっていうよりは、手話勉強中の聴こえる人とろうの人がちょっと話して「じゃあまた来月ね」って言って帰っていく場みたいになっていくといいなと思っています。

現状、手話を勉強中っていう人と、ある程度使えて喋る場が欲しいっていう人の二つに分かれていて、その中間層みたいなのをどうするかっていうのは課題ではあるんですけど、そういう来る人のレベルも考えつつ、交流して、あまりそこにスタッフがこう頑張って入っていかなくてもお互い参加者同士が繋がっていく感じになるといいかなと思っています。

あと、最初始めた頃は一回だけ新免さんに来ていただいて講演していただくっていうのもあったので、そういうのもまたやれたらと思っています。

教育関係でいうと当初やりたかった障害学生の支援とかっていうよりも、講義保障やったり手話通訳としても活動している中で、通訳っていうことが好きなのかなって思うようになりました。自分のそういうスキル、手話通訳とかパソコンの通訳とか、そういうところは引き続きとか高めていきたいなと思います。

加えて、大学院でいろいろ心理のことをちょっと勉強して資格も取ったので、ゆくゆくは例えば聴覚障害の人にきちんと心理検査ができるというか、何かこう日本語じゃない方法で自分を表現してもらって、「こういうこと大変なんだな」とか「ここが得意みたいだな」とかそういうのを知って、その関係する人たちに仲介して伝えていくみたいな、相談業務に活かせたらいいなと思っています。

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取材・編集:吉井大基
Twitter:@dyoshy_
Facebook:@daikiyoshii4321

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