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#14 【NPO法人にいまーる】 職員インタビュー vol.2 (前編)|臼井千恵

NPO法人にいまーるは、
• 聴こえる⼈と聴こえない⼈がお互いに⾼め合える場を作る
• 社会的少数派(マイノリティ)の⽣きづらさを解消する
• 聴覚障害者の社会資源を拡充する(ゆりかごから墓場まで)
を理念に、聴覚障害を持つ人の就労支援や生活支援,社会参加の支援,居場所づくりなどを行う団体であり、ろう者と聴者が一緒に働く職場です。
詳細は過去の記事をご覧ください。

「NPOで働く」と言ってもピンとこない人も多くいるかもしれませんが、現在にいまーるでは多様なキャリア・バックグラウンドを持つ職員が就職してきており、またボランティアやアルバイトなども含めると多くの人が働く場所として集まる場所になってきています。

今回で2回目となる職員インタビュー。にいまーるの職員のキャリアや人間性を深掘っていきたいと思います。

創設から10年が経ち、次の10年へと新しい一歩を踏み出したNPO法人にいまーる。

今回から前編と後編の2回にわたって、にいまーるの顔ともいえる臼井千恵さんにお話を聞いていきます。創設の中心人物であり現理事の臼井さんは、普段にいまーるの経営に携わっています。

そこで今回は臼井さんの経営者としての側面に着目し、お話を伺いました。

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経営者 臼井千恵になるまで


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 経営者になるっていうのは、普通にぼんやり生きていると思いつかない選択肢だと思うんですが、経営者を目指したきっかけのようなものはありますか?

中学か高校の卒業文集で、卒業した後に何になりたいかみたいなのがあって、そのころ一番なりたかったのは学校の先生なんだけれど、二番目は社長って書いてありました。

社長になりたいって書いた理由は、祖父や親戚が経営者だったので経営を身近に感じていたのもあるし、主体的に仕事をしたかったというのもあると思います。

聞こえる人たちの多い社会の中で、聞こえる人と一緒に働くときに、単純労働でお金をもらうことに多分、私は喜びを見出せないと思う。だから、主体的に自分で考えて企画して仕事をして…って考えると、聞こえる人の会社だと難しい部分もあるのかなとなんとなく思っていました。

例えば、会社に入って理解のある同僚がいればそれでいいかもしれないけど、上層部まで理解を求めないといけないし、運が良ければ働きやすいかもしれないけど、それって運でしょ。見えないじゃない。イチかバチかみたいな。それよりも自分で事業を起こした方がいいかなって。事業を起こす道に興味が強かったのかもしれないです。

━ 一番なりたかった先生ではなく経営者になろう、事業を起こそうと考えが変わったのはなぜですか?

最初先生になりたいって思ったのは、単純に聞こえない先生がいなかったからです。聞こえない先生がいれば、社会のロールモデルとして、これから進路を決める人たちも目指しやすいんじゃないのかみたいな気持ちがありました。だから大学2年生までは先生になろうと思って教職課程に進んでました。でも大学の先輩に「何のために先生になるの?」って言われて、改めて考えなおしたときに、まだ社会の経験もないし人生の経験もないから、大学を出てそのまま先生になるのではなくて、ちょっと遠回りをして、30歳くらいで教員採用試験を受ければいいかなと思ったんです。

教職課程をやめて、東京に行ったりとか海外研修に申し込んだりとか、いろんなところに行って経験や知識を深めていくうちに時間が過ぎて、4年生になって…。4年になると当然周りも履歴書を書く練習だったりとかスーツを着て大学に通ったりとか、それを見て、自分もそろそろ就職活動をしないといけないなと思っていました。

その一方で、なんでみんなと同じことをやらないといけないのかな、つまらないじゃんとも思いました。でも一度はやってみようということで、東京に行って、スーツを着て、一般企業の面接を何社か受けたけど、その時に面接官から「筆談じゃなくてできるだけ声でしゃべれるようになってみたら」と言われたり、また別の面接官は筆談をお願いしても書いてくれずしゃべるだけだったり。手話通訳の人からも「できるだけ通訳を使わないで自分の力でやってみたら」と言われたり…。

そういった現実に対して、理不尽というか「おかしいじゃん」て、聞こえない人が常に聞こえる人に合わせないといけないのかみたいな、そういうもやもやしたものがあって、その違和感から決めました。就活しないって。

親がそれを許してくれたというのと、知り合いが仕事を紹介してくれたのもあって、大学卒業後は京都で働いていました。

━ その後に新潟に来たんですね。

卒業した後も、大学時代に立ち上げた団体の運営には携わっていました。その団体の先輩が渡辺さん(※現在の理事の1人)とつながっていて、そこで渡辺さんと知り合ったんです。渡辺さんと話すうちに意気投合して、渡辺さんが新潟で地域を盛り上げるための本格的な計画を立てていたので、やるなら今だなと思って仕事を辞めて新潟に引っ越しました。失敗しても20代だから実家に帰って親のすねをかじればいいじゃんって(笑)。

引っ越した時はなにもない状態だったから、不安もあったかって言われると不安もあったんだけど、どちらかというと楽しみっていうか、そんな感じです。

━ 何かを新しく始める、今までなかったものを作る、0から1の作業って、大変というか難しいから僕はやりたいと思わないんですが…(笑)。

もっと広い世界を持ちたいっていう気持ちが原動力かな。

私が入った日本福祉大学には聴覚障害を持つ学生が、同期だけで14人いましたが、私以外の13人は同じろうの学生だけで集まっていたんです。それは悪いことではないし、気持ちも理解できます。でも私が目指しているものとは違いました。インテグレートを経験している彼らと違って、私はずっと聾学校に通っていたので、聞こえる人の世界に興味があったし、聞こえる人の友達を増やしたかったんです。そういう自分が生きる世界の外にある世界への関心が原動力だと思います。

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ただ、当時の自分に何かを創るっていう意識はなくて、何かやろう、飲み会をやろうみたいな感覚だったかも。

新潟で手話を教える活動をしているときも、ろうの人からは、聞こえる人とはなかなか関わりができないという声がある。一方で聞こえる人からは、手話を勉強した、でも手話を使う場所がない、ろうの人、聞こえない人はどこにいるのという声があって。ろうの人と聞こえる人をつなげる場所があるといいよねって思ったのが一つと、ろうの人は就職するときの壁があって、社会的な問題もあるというのが一つ。この二つを総合的に解決できる道筋を考えたときに、私も渡辺さんも福祉の勉強をしてたので、就労支援事業としてやった方がいいのかなと考えて、総合的な仕組みとして進めていったという感じです。

→後編へ続く

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インタビュアー/ライター:横田大輔
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編集:吉井大基
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