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秋空


彼女はゆったりと、しかし確かな足取りで秋の葉を踏んだ。



さくっ
と音を立てて、茶色の葉が小さく捩れる。

Autumn leaves sometimes leave me lonely. 



彼女は、この名も無い川沿いの小道をかれこれ小一時間も歩いていた。
歩を進めるにつれて、栗色に染めたショートカットが襟足のあたりで揺れ、耳には貝の化石のような形をした緑色のイヤリングがチラリと姿を見せる。

彼女は、なにか特定の物質のみを忌避するかのように慎重に歩き続けている。
その様子は側からみると、なにかから逃れて来たようにも、なにかに向かっているようにも見えた。ちょうどステージで奏でられた音楽が、観客のいない座席に向かって意味もなく間延びしていくように、方向性がなかった。

ただ彼女の頭上には、澄み切った秋の空が無限に広がり、彼女という存在をありのままの形で包みこんでいた。青はどこまでも青く、白はどこまでも高くに存在していた。

川は彼女の左手の眼下でどこまでも穏やかに緩やかな流れを形作っていた。

ふと、向かい風が強く吹いて、彼女の髪を吹き上げた。
あのオークランドの秋の風みたいだと、彼女は感じる。


大学3年の前期、大学の留学プログラムを利用して半年間訪れた異国の地。そこで知り合ったあの子はポーランド人だった。彼女はとてもコーヒーを淹れるのがうまくて、週末には寮の仲のよかった留学生グループのみんなに、時々授業がキャンセルになった平日の朝には、私だけのために、その才能を発揮してくれた。

私の帰国も近づいてきたある秋の朝、Writingの授業が先生の身内の不幸かなにかで休講になった日があった。私たちはどちらもその授業を取っていて、その日は午後までお互いに予定がなかったから、彼女がコーヒーを淹れて近くの丘まで歩こうと言ったとき、私はすぐに快諾した。
その日の彼女の淹れたコーヒーはいつにも増して美味しかったのを覚えている。

私たちはキャンパスから20分程歩いたところで、道端にあったベンチに腰を下ろしてコーヒーで一服した。

外でこうしてコーヒーを飲むには秋が一番いい季節なの、と彼女は言った。

確かにおいしいね、と本心で返す。

「But autumn is also the season I hate the most(でも秋は私が一番嫌いな季節でもあるの)」と彼女は続けた。

「Why?(どうして?)」 

「Because autumn leaves sometimes leave me lonely(紅葉の葉が時々私を寂しくさせるからよ)」と、こともなく答えて彼女はそれきり黙り込んでしまった。

しばらくして私たちは散歩を再開した。

近所の丘はなだらかな坂がしばらく続いたあと、最後の山場とばかりに最も高い地点の少し手前から急な斜面になり、それを超えると平坦な頂上が開けていた。
丘の上からは秋に染まる街並みが一望できた。それを眺めながら彼女は背中で語った。

「私の家庭は昔からポーランドに住むユダヤ系の一家でね、祖父は戦争中にナチに捕まって強制収容所に送られたわ」
「彼はこんな風なヨーロッパの秋にその施設から逃げ出そうとしたのだけれど、運悪く守衛に見つかって、敷地を囲うフェンスの側で撃ち殺された」
「父がこの時期になると、これは戒めだ、と言ってよく私に言い聞かせたのよ」

彼女は最後に、だから秋は嫌いで、紅葉を見ると時々とても遠くにいるような気持ちになるの、と加えた。

それからしばらくしてプログラムが満期を迎えた私は帰国した。それ以来ポーランド人の彼女とは連絡を取っていない。

さくっ
と音がして我に帰る。どうしてこんなことを今になって思い出すのだろう。

川面を眺めると太陽の光りを反射してキラキラと輝いている。
世界はなんて美しいんだろう。陳腐かつ、たった今引き戻された過去の記憶から感じる印象とも全く異なる感情を抱いていることに気づいて驚いた。

頭の中のぼんやりした形にもならない思考を整理しながら、真っ直ぐに歩き続けていると、だんだんと世界の輪郭がくっきりとし始めた。空は変わらずに青く、高く、白い。



しばらく行くと、ちょうどオークランドと同じようなベンチが、この川沿いの道に現れた。途端にいくばくかの疲労を全身に感じて、滑り落ちるように腰をかけた。こめかみに汗を感じる。

いや、しかしこれは確かに塩気を含んだ水分だが、汗ではなかった。

泣いているのだ。でもどうして?

答えは必要ないし、そもそも存在しないかもしれない。
ただ、おそらくはこの秋空のせいだろう。

そう意識するとなぜだか余計に涙が溢れていった。


すると、唐突に黒い影が視界の端に現れた。その人影は徐々に距離を近づけて、やがて隣に腰を下ろした。

白髪に丸いフェルトハットを載せた全身黒づくめの初老の男性が、声を発する。


「大丈夫かな?」

「すみません、この季節が少し苦手なもので、アレルギーみたいなものなんです」

どうしてこんな見ず知らずの他人にまで泣いていることで言い訳したり、謝ったりしてしまうのだろう。

「いや、そうじゃなくて」

「えっ?」

「ブーツの紐が解けているし、なにより青サバが空に浮かんだような顔をしているぞ」

「その話知ってるんですか?」

「少なくとも、好きな花は桃なんかではないよ」

「それ以上言うと丸太であたまを叩きますよ?」

男は満足そうに息を吐いてから、少し目を細めて続けた。

「昔の知り合いは根っからの詩人でね。言葉やあらゆるものに偉く敏感な男だったが、こんな風な秋の日に死んだんだ。それから私も書くことを辞めた」

「でも詩人というのは職業でも、ある行為をする人を指す言葉でもなくて、生き様のこと、つまりスタイルですよ。だからある意味ではそのお知り合いもあなた自身も今でも詩人なんじゃないですか。思うに詩人というのは、自らの目で世界を見てそこに現実にはない解釈という差し色を挟んで、世界を再構築する人のこと。それを絶えずなにを与えられるでもなくしてしまうような生き方をする人のことだと思います。そして彼らが声を持てば、世界は少し明るく、色彩を持つようになる」

だから書くべきじゃないでしょうか、と心の中でだけ念じる。

少なくとも、その声がまだ存在するうちは。

白髪の紳士は目尻に皺を作って、深く微笑んだ。


秋の空はますます澄んでいて、その青さも、高さも、白さも増すばかりに見える。でも、実はより高いところでは、乾燥した空気に少しだけ水分が含まれるようになり、その鋭さをさらに鋭く演出するための水の結晶がだんだんと準備されはじめていた。

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