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道徳の授業、まだやり続けるのか

 道徳の授業を思い出した時、児童養護施設に入っていた時の記憶が連動的に思い出された。
私にとって小学生の道徳の授業は、深く物事を考える思考の邪魔になっただけだった。


 「看護師」は職業であって、私にとっての一部・付属品のようなものでる。
それがいつの間にか「看護師」という枠の中に自分が入っていた。
「看護師」という世間的な印象のベールで自分を纏っているんだ。
 今このことに気がつけて本当に良かった。
気づかせてくれた方、ありがとうございます。

 職業のイメージに自分がもってかれている。
自分は流されやすい人間なのかもしれない。
白衣の天使なんて言葉、なんで生まれたんだろう。
ナイチンゲールか。
確かにナイチンゲールは天使のような人間だったに違いない。他人のために、戦場に足を運ぶ勇気と信念がある人。
 しかし私は自分の命は惜しいし、自分の家族も凄く大事だ。
何より私は、他人に全力で奉仕をするという行為ができない。
身を捧げるなんて行為、私にはできない。
 親切心は思いつくのだが「ここまでやる必要はないかな」と踏みとどまる時がある。“ちょうどいい、加減”を探してフォローする。
つまり、人によるのだ。
大好きな友人には少しも踏みとどまらないが、大して仲の良くない職場の同僚には踏みとどっまってばかりだ。
 仕事中は患者さんに「気が利くね〜」「優しいね〜」と言ってもらえる。
その言葉は純粋に嬉しい。
人に優しくすると気持ちよくなるのは人間の性質でもあるから。
 だがきっとこれは、小学生の頃に習った道徳の授業ではNGだろう。
だって、「誰にでも隔てなくが正義」だからだ。
優劣をつけることは悪とされている。
 でも、昔感じたあの感情はやっぱり優劣と言う名前だったと思う。
優劣をつけようとしなくても、それが存在するのは事実だ。


 児童養護施設に入所していた頃、お古の服を持ってきてくれた人がいた。綺麗な服を着た婦人だった。
綺麗な服を着た婦人は、綺麗な服を着た娘を連れてきていた。
 そしてお古の服を寄付してくれたその2人に、「〇〇ちゃん可愛いよねと」と群がる同居人の女の子達を、私は遠いところから眺めていた。

 「これは、格差だ」強くその言葉が頭の中を走った。
持っている人と持っていない人だ。
優と劣だ。
優劣を感じていようがなかろうが関係ない。
ただの事実としてそこに存在する。
これが現実なんだ。
 私にはあんな綺麗な服を着ることはできないし、綺麗な服を着る母親も、穏やかな笑顔をもつ親もいない。
いいなあ。羨ましい。で終わらせてはいけない。
 この時までは、ただなんとなく大人にこの箱の中(児童養護施設)に連れてこられただけだと思っていた。
だがこの瞬間から自分の立ち位置を意識するようになった。
 なぜそう思ったか覚えていないのだが、あの時の私は「優劣が存在することを認めなければならない」と躍起になっていた。
認めなければ自分の人生が終わるとまで思っていた。怖かったのだ。

 平等が正義なのはわかる。
えこひいきを見るとイライラするし、上から目線な医者は嫌われて、看護師に優しい医者は人気者だし、漫画の主人公にも誰にでも平等キャラは多い。
 だが小学生の道徳の時間に沢山聞いた、「誰へだてなく〜、人は生まれながらに平等だ」というそんな言葉、小学生の時の私はちっとも求めていなかった。
 逆に邪魔だった。
小学生とは感受性が高く、思考をまとめたり客観的に物事を考える練習をしている時期だ。
そんなときに「先生」という学びの中心人物からの言葉は強く印象に残ってしまう。
「先生」は正しい存在であり、そんな存在と自分の本心とのギャップに困惑してしまった。
正しさを用意してほしくなかった。
 自分がした質問の返答に対し「それが正解だね」と言う人、身近にいませんか?
自分が導いた正解の答えを相手が述べたら、満足そうな顔をする。
 私が関わってきた人間の中では、これをするのは医者が圧倒的に多い。
私はこの行動に結構、違和感というか、苛立ちに近い感情が湧く。
きっとこれは、もしかしたらだが道徳の時間の先生がやっていたのかもしれない。
自分の思う正しい答えを相手が答えたら満足する。
 私は残念な頑固者だし、人に縛られたり押さえつけられるのがめっぽう嫌いだ。
今ではこんな性格だが、小学生の時の道徳の時間では先生が求める正しい答えを一生懸命探していた。
 あの時のその行為は無駄であり、他者や自分について深く考えることへの障害となってしまっていたと、今は思う。

 今の子ども達がどんな感受性をもち生きているかは知らないが、現実を教えてくれた方が助かるし、知った上で彼らはどう考えるのかを聞くのも楽しいのではないだろうか。
 それに私は自分が児童養護施設で感じた恐怖心を、自分の子どもには感じてほしくない。
気づいていなかった感情や事象に気づいた時の感情は「恐怖心」ではなく、自分の成長を感じられたりといった「ワクワク」だけでよい。

 そもそも、「道徳心」とは授業で学ぶものなのか。
人とのコミュニケーショションの上で失敗・成功を繰り返し、少しずつ培われていくものではないだろうか。
受け身で学べるものなのか。
海外と比較して無駄に長い受け身義務教育の日本に、こんな授業をしている余裕はあるのだろうか。
 いじめ問題への対策なのだろうが、この授業をすることで減るとは到底思えない。
他人への不快感に対する自己処理方法は自分で学ぶしかないし、他人に暴力を振るのなら非難し裁かれる覚悟をもって実行しなければならない。
 だが島国日本人のDNAはそう簡単に変化することはできないだろう。
昔から災害が多く、鎖国をしていた時代も長かった。
国内で協力して生産をしなければならなかった。
「みんなで協力し合わなけでば生きていけない環境」だったことが、反対に異質を冷遇し排除攻撃することに繋がってしまう。
「皆と違う」に嫌悪感をもってしまう性質が日本人にはあるのだ。
遺伝子レベルのことだから、そう簡単にコントロールしたり変えることはできない。
 私は、少し変わっている人に好感を感じる傾向があると自分自身では思っている。
逆に他人に対しの嫌悪感を感じた際は、「日本人の自分は、異質への冷遇を感じやすい性質をもっている」ということを思い出すようにしている。
潜在的に嫌悪を感じている可能性があるぞ。この人への嫌悪は、この人を知らないから生まれたものではないか?嫌悪する理由が、実はない可能性があるのではないか?自分に問う。
 つまり道徳の授業が道徳心を培う本質にはなり得ないだろう。ということだ。
道徳の授業をすることで大人たちは安心したいのだろう。
塾に通わすことで「自分は子どもにやれるだけのことはやってあげている」と安心したいと考える親と似たようなものだ。

 そもそも「道徳心」を教えられる大人、というより人間は存在するのだろうか。
 子ども主導で考えるように作られているのかもしれないが、結局あの道徳の時間の雰囲気は誘導に近かった。
私は道徳の時間に使っていたフワフワした雰囲気の教材も嫌いだった。
 大人ができることは精々、子どもが知らないことを見て感じられる場所・経験の提供ぐらいだ。提供後、子ども達は何を感じ考えたのか聞いてあげることの方がよっぽど重要で有意義な時間だと私は思う。



令和も4年過ぎた。
道徳の授業、いつまで続けるのだろうか。


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