【49】 お金と命の関係
抗がん剤治療も、あと数回。
おっぱいがひとつしかなかろうと、おしりが痛かろうと、髪の毛がつるっぱげであろうと、私は今、とにかく生きている。
少しずつ気持ちが上向いてきました。
朝目覚め、鏡の前の自分に笑いかけ、「今日も生きている。いい一日にしよう」と言える暮らしが、だんだん板についてきました。
失ってはじめて「今あるもの」をありがたいと思えるようにもなったのでした。
日常にまつわる家事などは、言ってしまえばすべて面倒なことです。
けれどもそれができなくなってはじめて「これまで、できるカラダがあった、そのありがたさ」に気づかされたのでした。
そんな風に、「日々のなにげない喜び」にフォーカスするようになってから、お金の使い方にも変化が現れました。
私は母由来の「節約志向」なので、例えば一杯500円のコーヒーを、もったいないなぁと思って普段は避けて生きてきました。
夫とコーヒーを飲みに行くのにも、「高いお店」で飲むよりは、「安いお店」で飲む方が気持ちが落ち着くのです。
貧乏性なのですかね。
しかし、最近では、「今、このコーヒーを我慢しないといけないほど、お金に困っているんだっけ? それよりも今、美味しいコーヒーを飲みながら楽しい時間を過ごすことの方が大事なのでは?」
こんな風にして、例えば、パン屋さんでパンを買うにしても、「本当はこれが一番食べたいけど、高いからやめとこう」という考えをやめて、「これが一番おいしそう、一番食べたい」というパンを買うようになりました。
(えーと、あの、みなさんはこんな些細なことに悩んだりしないものなんですかね?? コーヒーを飲んだりパンを買う際に、心のせめぎ合いをしている方がいらっしゃったら教えてください)
話を戻します。
このような「快」の気持ちを、数百円を惜しむことで取り逃がしちゃいけないと思うようになりました。
考えてみれば、「お金」の使い方って、難しいですよね。
お金を使うという行為は、その人が何に価値を感じるか、つまり、その人らしさとも言えるのかもしれません。
母などのお金の使い方を見ていると、
という感じ。
「不安」が根底にあるのでしょうが、まるで「お金そのものが目的化」しているようなのです。
もちろん生きるために、命を長らえさせるために、「お金」は必要ですが、お金は「命を輝かせるための、手段」に過ぎないのですよね。
未来が不安だからと、せっせと稼ぎ貯金しようとするような、母のようなまっとうな価値観を、多くの人が持っていることかと思います。
私もそうです。
まっとうだからこそ、否定はできない大事な価値観です。
しかし一方で、未来のためにいくらお金を貯めても、人は明日死にます、突然に。
だから、どちらか片方の考えを妄信するのではなく、
「どちらもが真実である」ことをバランスよく捉えておくことが、毎日を楽しく生きる私たちには必要なのではないですかね。
自分の傾向を知って、アンバランスだと感じたら「メモリをずらす」。
これができたら、日常の満足度が底上げされるように思います。
お金が、毎日を楽しくしてくれる「手段」なのだから、使ってこそ「快適」を得られることがたくさんある。
お金という手段は、私たちが幸せに生きる「目的のために」ある。
そして、「その生きる時間」。
それこそが「命」です。
「楽しく生きる目的」を果たすために与えられた「有限の時間」のことを命と呼ぶんだよな。
だから今も、毎秒毎秒の時間こそが、「命そのもの」です。
こうしてキーボードをたたく、この毎秒、毎秒も、私の命を使って書いている。
そしてあなたがこのブログを読む行為も、あなたの貴重な時間を削って行っていることです(だから、ありがとう)
今も今も、今も、減り続ける、「時間」という私たちの命。
だから、できる限り、自分が有意義だと思えることに使うこと。
そのために、必要だと思う「お金」は使うこと。
今ではない、過去や未来のことは、考えすぎないこと。
未来を心配することで、今現在に厳しかったミソちゃんでしたが、今現在を楽しむミソちゃんに進化しつつあります。
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